週報:【敵を愛することについて―ローマ12:20】(2022/01/23)


「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」(ローマ12:20)敵に善をするというのが聖書の命令です。このローマ書の御言葉以外でも、キリストが「ただ、自分の敵を愛しなさい。」(ルカ6:35)と命じておられます。というのも聖徒たちに対する神の御心は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということだからです。実際、神は律法の中で、敵の所有物にさえ配慮すべきだと定めておられます(出エジプト記23:4~5)。これは私たちの理性に反することですが、正に道徳の極みであり、J・S・ミルほどの天才をも驚嘆させたぐらいです。私たちは自分の力により敵を愛することができません。ですから、私たちは御霊に導かれてこの戒めを実行するのです。どうか神が私たちに力を与え、敵に対する善をも行なわせて下さいますように。しかし、この御言葉の解釈で問題なのは、敵に燃え上がる「炭火」です。「炭火」が積まれるとは何でしょうか。これは前の19節目で書かれている「神の怒り」による<不幸>だと多くの人は解釈するかもしれません。何故なら、聖徒は敵に善を行なっているのに、敵のほうはと言えば悪に走り続けたままなので裁きを招くからです。自然に考えるならば、このような解釈になるのが普通だと思えます。しかし、アウグスティヌスはこのように解釈する人たちを非難しています。何故なら、敵が復讐されることを望み、敵の不幸を求めるのは愛のある人であるべきキリスト者には相応しくないからです。アウグスティヌスの場合、この「炭火」を<神の復讐により燃え上がる激しい痛悔の苦しみ>だと解釈しています。これはアウグスティヌスらしい愛のある鋭い解釈です。彼はもしこうするならば、敵が救われることにもなると言います。対立する者からの善という良い意味で驚くべき行為をされたならば、敵が衝撃を受け、キリスト者の信じている神へと引き寄せられることにもなるからです。このように、この「炭火」には良い意味と悪い意味の2つの解釈をすることができます。キリストの身体すなわちプロテスタント教会の未来を考えるならば、これは神の怒りの復讐により、敵の心が改悛へと火の如く燃え上がることだと解すべきでしょう。敵のためを思って敵へ善を行なう人に引き寄せられない人がどこにいるでしょうか。そういうキリスト者が増えれば、教会勢力が魅力的になるので、もっと多くの人が教会の主であるキリストに心を傾けるはずです。しかし、敵の滅びや苦痛を願って敵に善を行なうのであれば、教会は発展せず、今のまま停滞を続ける可能性が高いでしょう。敵の不幸を求めて善を行なう人には愛がないからです。人は愛にこそ惹かれます。「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」(箴言19:22)と書かれている通りです。愛をこそ求めて行こうではありませんか。そうすれば神に喜ばれ、人にも喜ばれるのです。キリストも敵であった私たち罪深い者を愛し、御自分を私たちの罪のため十字架の上で犠牲として下さいました。パウロはこう言っています。「愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」(エペソ5:1~2)