週報:【聖書を理解することの重要性】(2022/01/30)


私たちは、聖書を読めば読むほど、聖書について考えれば考えるほど、聖書がどのような書物であるかより理解できるようになります。ちょうど誰かと長く一緒にいれば、その人についてよく理解できるのと同じです。今週の週報では、聖書を読み考えることで理解できる3つの事柄について記したいと思います。まず一つ目ですが、聖書の記述は実に誠実です。どういうことかと言えば、聖書は面倒臭がったりいい加減な書き方をせず、書くべきことをしっかり書き記すのです。もちろん、聖書に省略されている箇所が全くないというわけではありません。しかし、そのような箇所はそれほど多くなく、全体として見れば入念な記述が徹底されています。例えば、詩篇136篇がそうです。そこでは神の恵み深い事項に関して一つ一つ「その恵みはとこしえまで。」と書かれていますが、これが普通の書物であれば最後に「これらの恵みはとこしえまで。」などと纏めたり、冒頭で「これから書かれる事項は神の恵みによる。」などと前置きしていたかもしれません。民数記1:20~43、7:12~83の箇所でも入念な記述が見られます。このように聖書の記述が誠実なのは、神がそれを書かれたからに他なりません。何故なら、神とは誠実そのものであられ、律儀の神だからです。二つ目は、一つ目の内容と重なる面もありますが、聖書は繰り返しを全く避けていないということです。聖書を読んでいると、他の箇所で言われていたことが再び同じようにして書かれているのをよく見かけます。例えば、安息日の遵守や血の禁止命令がそうです。誓ったことを果たさねばならないこと(民数記30:2、申命記23:21~23、伝道者の書5:4~6)、地境を移してはならないこともそうです(申命記19:14、27:17、箴言22:28、23:10)。箴言でも繰り返しがよく見られます。4つの福音書を見ても、やはりキリストの言行が繰り返して書かれています。このように聖書が繰り返しを厭わないのは2つの理由があると思われます。一つ目は、神は非常に大事なことを語っておられるからです。大事なことは大事なのですから何度も語られるのが相応しいのです。二つ目は、私たち人間の不完全さ、肉的な弱さ、霊的な鈍さに対する配慮です。キリストにより贖われた聖徒であっても堕落しており、罪深い「死の、からだ」(ローマ7:24)を身に纏っており、腐敗が満ちた地上世界にへばりついて生きているのですから、天上的な事柄・神に属する理性を越えた真理・完全で聖なる道徳といったことは何度も何度も繰り返し聞かされるのが望ましいのです。三つ目ですが、聖書には隠された秘密が至る所に存在しています。すなわち、ただ普通に読んだだけでは到達できない深みが多くあります。例えばユダヤ人の宿営した場所を列挙した民数記33:5~49の箇所。この箇所を普通に読んだだけでは、ユダヤ人が幾つもの場所に宿営したという単純な理解が得られるだけです。しかし、ここで列挙されている宿営した場所を数えてみると「41」あることに気付きます。エジプトも宿営地として含めれば、ユダヤ人がヤコブの時代にカナンから離れて再び帰って来るまでに宿営した場所の総数は「42」であったことが分かります。<42>です!民数記や黙示録の註解書でも書きましたが、これは聖書に多く出て来る象徴としての意味を持った実際の数であり、それが「神の定めであること」また「少ないもしくは短いこと」を示しています。つまり、これはユダヤ人がカナンから離れて宿営していたのは神の定めであって、カナンから離れていた440年という期間からすれば少しの場所にしか宿営していなかったということなのです。このように聖書の記述は霊的であって深いのですが、それは記述者であられる神が無限の深みを持った御方だからなのです。このように今3つの事柄が書かれましたが、私たちはこの聖書にこそ立脚しましょう。聖書をこそ求めていきましょう。聖書の理解が更に深まるようにしましょう。これらのことを神が喜ばれるのは間違いありません。しかも、このようにすれば力が与えられ、教会勢力の低調状態が改善されるようにもなるはずです。それは宗教改革を考えれば分かります。あの宗教改革は力ある出来事でしたが、それは徹底的に聖書を研究したことの現われまた果実としての出来事だったからです。