週報:【受肉という愛の遜り】(2022/02/13)


御子は神であられるのに人となられ、そのうえ私たちの罪のために死なれ、しかも十字架刑という最も残酷で恥辱的な死にまでも服して下さいました。パウロはこう言っています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質を持って現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」キリストがこのように受肉して死んで下さらなければ、私たち罪人に救いは全くありませんでした。この死に至る受肉は愛の御業でした。何故なら、神が人となられ死ぬことさえされたからです。無限で永遠の神が、有限で無数の制限に取り囲まれた矮小な人となられたのです。受肉とは、無限者が有限の状態に服することであり、永遠者が時間という牢獄の中に自分を閉じ込めることでした。これは無限の愛、しかも純粋で完全な愛なしにはできないことでした。神は人間に対する愛のゆえ、このようにして受肉され死なれることを良しとされたのです。この受肉を私たち人間で例えればどのような例えになるでしょうか。私たちを神の立場として例えるならば、これは私たちが動物や昆虫になるようなものです。私たちが動物になれば吠えることしかできず、四つ足で歩かねばならなくなり、人間らしい生活はできなくなります。昆虫の場合はもっと酷い状態になります。動物界や昆虫界に絶滅の危機が近づいていたとして、もし私たちが動物や昆虫になればその下等生物たちを守ったり助けたりできます。しかし、そのためには私たちが動物また昆虫として死なねばなりません。私たち人間のうちで誰がこのようにしようとするでしょうか。ムツゴロウ(畑正憲)やファーブルのような人であれば或いは挑戦することも出来るかもしれませんが、ほとんど全ての人間は挑戦しようなどと全く考えないでしょう。ところが神は、私たちが動物や昆虫にまで自分を引き下げるかのようにして、御自分を人にまで引き下げて下さいました。もちろん、この例えには問題点が幾つかあります。まず神は御自分の似姿にまで御自分を引き下げられたのに対し、例えのほうでは引き下げる対象が人間の似姿ではないという点です。また神の場合は無限者が有限者として受肉するという究極の卑下であるのに対し、例えでは有限者が同じく有限者である存在に卑下しているだけです。一方は次元的な卑下であり、一方は次元的な移行がない卑下です。しかし、この例えは神がどれだけ御自分を引き落とされたかということを間接的に理解させてくれます。実に神が人として来られたのは、私たちが動物や昆虫になること以上の遜りでした。こういうわけですから、キリスト教の要諦はアウグスティヌスも言った通り「謙遜」なのです。それは神の御子が私たちのために無限の愛をもって遜られたからです。神が私たちにもこのような愛の謙遜を見習わせて下さるよう願うものです。それはパウロがこう言っているからです。「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」(エペソ5:1)もし私たちが愛の謙遜を実践すれば教会は多くの人を獲得できるようになるでしょう。何故なら、御子が愛の謙遜を実践されたからです。その謙遜により御子は全世界を獲得されたのです(マタイ28:18)。