週報:【山に見られる海の生物について】(2022/03/20)


世界中の高い山に、本来であれば海にしか見られないはずの貝や魚の死骸が見られるということを、私はこれまで何度か語りました。ダーウィンは『ビーグル号周航記』でこのことに驚いていますし、トマス・ジェファーソンの『ヴァージニア覚書』でもアメリカの高い山で貝が見つかることについて書かれています。私は最近、レオナルド・ダ・ヴィンチもこれについて言及していることを知りました。こうです。「なぜ海沿いの山脈の高い頂上で、低い海におけると同じように、大魚の骨や牡蠣や珊瑚その他種々さまざまな貝やら烏賊やらが見いだされるのであろうか。」(レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下 p173:岩波文庫33-550-2)これがノアの大洪水により山にまで運ばれたことは疑い得ません。このレオナルドは聖書を「至高の真理」また「王冠たる文字」と言っており、神聖不可侵の文書としています。ですからレオナルドもこれが大洪水により山まで運ばれたと信じているかと思いきや、この狂った男は盲目かつ嘘つきであって、そもそもノアの大洪水が世界的な規模であったことさえ信じていませんでした。聖書が「水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。」(創世記7:19)と述べているのに、です。また、「箱舟は、…アララテの山の上にとどまった。」(創世記8:4)と聖書に書かれているのに、です。標高5137mのアララテ山に箱舟が漂着したのですから、大洪水が世界的な規模であったことは間違いありません。実のところ、レオナルドはキリスト教徒のように見えますが、神の霊は受けていませんでした。神の霊を受けていれば聖書の記述を素直に信じていたからです。神の霊を受けていない偽聖徒には、聖書の教えが分からず、それを愚かだと感じてしまいます。パウロがこう言った通りです。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Ⅰコリント2:14)しかも、この男はあろうことか愚かにも大洪水の真実性を必死になって否定しようとしています。もしレオナルドが神の子であったとすれば、こんなことはしていなかったでしょう。彼の描いた聖書の絵が出鱈目な絵ばかりであるのも、うなずけます。何故なら、神の霊を受けていないのにどうして聖書の絵を正しく描けるでしょうか。「最後の晩餐」も「受胎告知」も「岩窟の聖母」も人々に間違って聖書を伝える出鱈目で有害な絵画ですから、聖徒が世界に増え、聖書的な社会が実現された暁には燃やし尽くされるべきでしょう。それは、高級ブランドバッグの偽物が無くなるべきであるのと一緒です。どれだけその偽物が素晴らしい出来であっても、偽物のバッグは消え去るのが理想的であるはずです。さて、この不信仰なレオナルドによれば、大洪水により貝や魚の死骸が高い山まで運ばれたと言えないのは、水は自分よりも重い物体をその上に浮かべず沈めてしまうからだといいます。だから、海中に沈んでいる貝などが大洪水により上昇したとは考えられないと。馬鹿げたことです。彼は、津波の時に水が家や車や電柱や大木といった巨大な物体をその水面上に出しつつ運んでいる様子を忘れています。これほどの巨大な物体が水に浮かぶのであれば、貝はどれだけ容易く水に浮かぶでしょうか。また、彼は「四十日四十夜、地の上に降った」(創世記7:12)大雨による増水が、穏やかな増水だったと思い込んでいます。だから、海中にへばりついている貝は上昇することがなかったと。これも馬鹿げた想像です。エベレスト山さえも覆うほどの増水が大雨で40日の間に起こったのですから、その時、水の至る場所に大きな激流、津波、激しい衝撃、考えられないほどの圧力が生じたのは間違いありません。そうであれば海中にへばりついている貝などはいとも簡単に高い山の位置まで上昇させられたでしょう。ところが、この霊的盲人は神の霊を持っていないので、このようなことが分からないのです。しかしながら、彼がこのようだったとしても、彼の時代を考えればそれほど驚くべきではないかもしれません。レオナルドの時代はカトリックが最も堕落していた時であり、ルターが間もなく登場する時だったからです。当時は教皇や司祭といった上の者が堕落していれば、一般信徒という下の者も堕落していました。レオナルドは下の者でしたが、やはり彼も堕落から免れていなかったのです。今でも聖書を否定しようとするレオナルドのような毒麦がいますから、私たちは注意すべきでしょう。もし惑わされたら信仰がおかしくなるからです。惑わされないところに聖徒の信仰と敬虔があるのです。