週報:【「動機」の重要性について】(2022/03/27)


「動機」が、ある行ないを善か悪か決定づけます。この動機は神の御前で非常に重要です。何故なら、神は私たちの行ないがどのような動機に基づいているかを重視されるからです。動機が善悪を決めるというのは、キリストの受難が分かりやすいでしょう。キリストを死に引き渡した存在は3者ありました。すなわち、神とサタンとユダです。この3者はキリストを死に陥らせたという点で全く同じことを行ないました。しかし、キリストを死なせた動機には2種類がありました。神は人類の贖いを実現させるためにキリストを死に渡され、サタンとユダは自分の罪深い欲望を満足させるためにキリストを死に渡しました。前者は善のために死なせ、後者は悪のために死なせました。それゆえ、神はキリストの死において崇められ感謝されるのに対し(エペソ1:6)、サタンとユダはキリストを死なせたので滅ぼされることになりました(使徒の働き1:18、ヘブル2:14)。つまり、キリストを死なせたのは良いことであり悪いことでもありました。その死なせた動機が良いか悪いかを分けています。また、これは死刑と犯罪における殺人を考えても分かりやすいでしょう。死刑執行人と人を殺した犯罪者は、殺人者という点で全く一緒です。しかし、死刑執行人は正義を実現するために殺し、犯罪者は自分の悪い欲望を満たすために殺しました。ですから、前者は良い殺人者とされ裁かれるどころか殺人により給料さえ貰えますが、後者は悪い殺人者とされ法の処罰を受けて悲惨になるのです。嘘でも、ラハブのように隣人を助けるためにつく嘘であれば善となり神から喜ばれますが、悪を行なうためにつく嘘であれば罪となり神から裁かれてしまいます。良いと思われる行ないでも、救われる人が増えたり幸いな影響を及ぼすため見られるようにすれば御心に適いますが(マタイ5:16)、自分への評価を高めようとして偽善的に見せつけるのであれば罪となります(マタイ6:1~6)。このように全ては動機により善いか悪いかが決まります。しかし、この「動機」は心に属する目に見えない精神的な動きまた状態ですから、往々にして疎かにされがちですし、周りの人がある人の動機を正しく把握することも容易くありません。私たち個人について言えば、最初は良い動機でしていたのにいつの間にか見せつけるために行なうようになっていたということは十分に起こり得ますし、ほとんど何も考えないで行なっていた善が非常に神に喜ばれることだったということもあるでしょう。私たちが誰かの行ないを見る場合について言えば、偽善から行なっているに違いないと思っていても実は心から行なわれているケースがあるでしょうし、きっと心から行なっているに違いないと信じていても実は偽善から行なわれていたというケースもあるはずです。事は精神の領域に属しますから複雑曖昧であって見極めるのも把捉するのも難しいのです。もし動機が物体であり実際に見えたとしたら、こんなに難しいことはなかったでしょう。いずれにせよ私たちは何かを行なうに際し、この動機を最重視せねばなりません。何故なら、「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)のだからです。もしそれが偽善や罪深い欲望からであれば神に喜ばれませんから行なわないほうが良いでしょう。