週報:【罰を齎さないままではいない罪深き不信仰】(2022/04/17)


日本人は今でもそのほとんどが救われていない状態にあります。これの理由として考えられるのは一つだけです。すなわち、日本人のほぼ全ては、イエス・キリストにより救われるよう永遠の昔から定められていないのです。救いに定められていないのであれば、どれだけ福音伝道がされても救われないのは当然です。一体、誰が神の定めを覆すことが出来るでしょうか。日本人がキリストの救いを受け入れないのは、彼らが救われず、癒されず、慰められず、赦されず、死んでから地獄で永遠の刑罰を受けるためなのです。イザヤがこう言った通りです。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」(ヨハネ12:40)日本人はこの世的な見方をすれば善良な民族かもしれませんが、神の御前においては地獄に投げ込まれるべき全くの死人です。もしそうでなければ、今頃この日本には多くのキリスト者がいたことでしょう。しかし、日本人が救われないからといって、福音伝道を止めてよいことにはなりません。むしろ、教会はますます日本人に対する伝道をしていくべきです。何故なら、この日本が未来にはどうなるか分からないからです。もしかしたら、福音の種蒔きが未来の救霊に繋がるかもしれません。また、神は福音伝道により、日本人が地獄へ投げ込まれることについて、ますます弁解の余地を持てなくなるようになさいます。ただでさえ人間は生まれた時から既に弁解の余地がないというのに(詩篇51:5)、キリストの福音を知らされながら信じなかったとすれば、どれだけ弁解の余地がなくなるでしょうか。生まれた時から既に地獄に行って当然なのに、福音を無視または拒絶したとすれば二重に地獄に行って当然であることになります。この静岡について言えば、ここまで福音が伝えられても人々に無視また拒絶されているというのは、神がこの静岡に災いを計画しておられるからである可能性も十分あります。その災いとは富士山の噴火です。つまり、キリストの聖なる福音を受け入れなかったので、裁きとして噴火の災いが与えられるかもしれません。いつか富士山が噴火することは間違いありません。神が噴火させられるのです。もし神が理由なくして富士山を噴火させたとすれば、「どうして神はこんなことをされたのか。酷い。」と非難できる余地があることになります。しかし、噴火の前に静岡の人々が福音を拒絶していたとすれば、むしろ静岡の人々は噴火という災いを受けても仕方がないことになります。何故なら、キリストを無視または拒絶するというのは、とんでもないことであり、10000回の殺人よりも悪いことだからです。聖なる救いを受け入れないのであれば、噴火という大きな災いを裁きとして受けるのは自業自得であることになります。つまり、この場合、噴火は神の怒りを示していることになります。三島市の人々は福音を全く受け入れませんでしたが、ここ静岡市の人々も受け入れようとはしていません。恐らく神の救いが書かれたトラクトは多くの人々に捨てられているでしょう。であれば、静岡市の人々が神から捨てられたとしても何の不思議があるでしょうか。「あなたがしたように、あなたにもされる。」(オバデヤ15)と書かれている通りです。神とその救いを捨てる者が、どうして神から捨てられずに済むのでしょうか。ありえないことです。御子の救いを知らされているのに受け入れていないのであれば、ただで済むはずがありません。「信じない者は罪に定められ」(マルコ16:16)るのですから。確かなところ、御子の救いを受け入れないということほど、神が怒り不快に感じられることはありません。神が人類のためを思って、御子を十字架の死に引き渡されたのに、その救いを受け入れようとしないからです。信じようとしないのに裁かれないままでいるというのは有り得ない話です。