週報:【30歳から始められたキリストの公生涯について】(2022/04/24)


主は30歳になってから公の活動を始められましたが(ルカ3:23)、どうしてそれまで30年間は隠れたままで過ごしておられたのでしょうか。これはソロモンが伝道者の書3:1で言っている通り、「天の下では、何事にも定まった時期があ」るからです。キリストが公生涯を始められる「時期」は30歳の時だったのです。それでは、どうして30歳の時がその「時期」だったのでしょうか。その理由は3つ考えられます。一つ目の理由は、主の父なる神に対する従順が示されるためです。それまで30年間もずっと御父に服従しておられたとすれば、「キリストには何の罪もありません。」(Ⅰヨハネ3:5)という御言葉が確かであると分かります。主は私たちの罪を負って贖いとなるため、全く罪を犯していないことが証明されていなければなりませんでしたので、30年間も隠れたままで過ごしておられたのです。もしキリストが30歳になるまでに、例えば14歳ぐらいで公の活動を始めておられたとすれば、罪を犯しておられないことの証明があまり十分ではなくなっていたでしょう。しかし、30年間も御父に従っておられたというのであれば、罪が何もないことの証明としては十分です。二つ目は、主が御自分を不思議な御方として示されるためです。主が30歳になって突如として公の活動を開始したのであれば、多くの人々は驚いて不思議がるはずです。実際、特に主の家族がそうでしたけども、多くの人々は公に姿を現わされた主のことを不思議に思いました。こうして主は「不思議」(士師記13:18)な御方であるという聖書の教えが私たちに示されたのです。三つ目の理由は、主が御自分の御身体を最高の状態で父なる神に生贄として捧げるためでした。キリストが私たちのため永遠の生贄となられたのは33歳の時です。古代人がよく言ったように、この年齢の頃は体力であれ健康であれ身体の状態が絶頂期にあります。知性は40歳頃が絶頂期ですが、身体は30代前半を過ぎると徐々に衰えていくばかりです。律法が命じている通り、神に捧げる生贄は最高の状態であるべきです。それゆえ、キリストは御自分の身体を生贄として最高の状態で捧げるべく、33歳で贖罪が成し遂げられる3年前に公生涯を開始されたのです。もしキリストが老化の進んだ90代で御自分を父なる神に捧げられたとすれば、どうだったでしょうか。キリストが90代になるまで十字架に架かられなかったとしても、それまでに罪を犯されなかったことは間違いありませんから、永遠の贖いは実現されていたでしょう。しかし、老いた身体で生贄が捧げられるより、33歳という身体が最も生き生きとした状態で捧げられたほうが、どれだけ神の御心に適うでしょうか。神は律法でより良い生贄をユダヤ人に求められたからです。ですから、キリストはベストな状態で御自分の御身体が父なる神に捧げられるよう、計算しつつ公に現われたことが分かります。こういうわけですから、キリストが30歳になってから悟りを開いたと考えるのは間違っています。釈迦が人生の途中で悟りを開いたのとは異なり、キリストは生まれたその時から既に悟りを開いた状態でした。それどころかキリストは永遠の昔からずっと悟りを開いた状態でおられました。何故なら、キリストとは「とこしえにほめたたえられる神」(ローマ9:5)であって、永遠の昔からずっとおられたからです。キリストが30歳になるまで悟りを開いていなかったと考えるのは、キリストが人となって来られた神であることを信じていない不信仰な考えです。それは反キリストの考え方です。