週報:【地上で生き長らえること/次の人生で永遠に生きること】(2022/05/15)


セネカも言った通り、人は僅かばかり寿命を延ばせるだけでも、大金を使い果たします。例えば、もう数か月また数年ほど命を延ばせる薬があれば、所持金のほとんどを使うことになってもその薬を得ようとする人は少なくないはずです。また、人は命を引き延ばせるのであれば、どんなことでもしようとするものです。例えば、延命のため豚の心臓を移植したアメリカ人のニュースが最近ありました。その人が言うには「こうするしか他に選択肢がなかった。」ということです。確かにその通りだったのでしょう。つまり、この人は生きるため、豚の心臓に希望をかけたわけです。この結果、手術は成功しましたが、やはりと言うべきでしょうか、それから間もなくこのアメリカ人は亡くなりました。このように人は生きることを何よりも欲します。お金を全て使い果たすことになっても、動物の心臓を移植することになっても、生きることが大切に思えるのです。これは人が神に似せて創造されたからです(創世記1:26~27)。「わたしは永遠に生きる。」(申命記32:40)と言われた神は、永遠から永遠に至るまで生きておられます。ですから、神に似せて造られた人間は、命という神の存在を示す最も根本的な事象また状態が自分から消え去るのを恐れるのです。それゆえ、神の似像である人間がこの地上で生き続けることを望むのはごく自然です。こういうわけですから、人間がたとえ僅かであっても長く生きようとするのは当然であり、何もおかしくありません。これは、神の似像であることを自ら放棄する自殺が咎められるべきなのと正反対です。しかし、この地上の人生で生き続けることを望むのであれば、どうして次の人生で永遠に生き続けることは望もうとしないのでしょうか。多くの人は、この今の人生で生きることを望むだけであり、来世での生命にはほとんど無頓着です。これでは今の短い人生で僅かばかり長く生きるほうが、次の人生で永遠に生きることよりも遥かに重要であるかのようです!次の人生は永遠に続きますから、すぐ過ぎ去る今の人生などより比べ物にならないほど大切であることは間違いありません。それなのに求めるのは今の人生における長命だけ。これは多くの人が盲目であって、今の地上での人生のことしか考えていないからに他なりません。パウロが「彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:19)と言っている通りです。もし今の人生で生き続けるのを望むのであれば、次の人生でずっと生き続けられるようになるのも望むべきです。神の子イエス・キリストを信じるなら永遠に生きられます。キリストがこう言われた通りです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネ6:47)イエス様は永遠の命そのものであられる神です。それは使徒が「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」(Ⅰヨハネ5:20)と言った通りです。キリストも御自分のことを「いのち」(ヨハネ14:6)であると言っておられます。誰でも永遠に生きたければ、この命なる御方を信じて救われなければなりません。もし信じなければ永遠の命はその人になく、あるのはただ永遠の死だけです。永遠の命である御方を信じないのに、どうして永遠の命を得られるはずがありましょうか。