週報:【日本人の精神に刻印されている神存在】(2022/06/19)


日本人について理解を深めるほど、日本人がどれだけ根本的に有神論なのかよく分かってきます。例えば、今の日本人は何か卓越した人物や商品を見ると、すぐに「神」と言います。日本人はどれだけ何かについて「神」と言っていることでしょうか。これは神の存在を無視する無神論者であれば考えられないことです。欧米の白人ですと、無神論者である場合、自分が無神論であることをハッキリと言います。「俺は無神論なんだ。」などと。「俺は神が嫌いなんだ。」と率直に言っている人もいます。ところが日本人の場合、少なくとも私の記憶する限りでは、こんなことを言っている人などまったく存在しません。むしろ、日本人は無神論者や無神論的な言葉を見ると「ちょっと危ないぞ」と思っているように見受けられます。ある日本人などは、ニーチェの無神論的な発言に対して「何言ってんだコイツ」と述べていました。ユーチューブのコメント欄やツイッターや掲示板やブログでは、どれだけ多くの日本人が、悪い者や悪事に対して「必ず天罰が下りますよ。」とか「まあ神様は全て見ておられますからね。悪人は必ず痛い目を見ます。」などと発言していることでしょうか。私はこのような発言を頻繁に見かけるので驚かされてしまいます。日本人の精神には「神」の存在が紛れもないほど明瞭に、そして強力に刻印されていることを見て取るからです。どこかのサイトのコメント欄を見ていると、敬虔なキリスト者が発言するかのような発言を見かけることも珍しくありません。なるほど、これでは日本人が道徳的に善良な民族となるわけです。何故なら、真の道徳は神を恐れるところに生じるからです。それはモーセがユダヤ人に対し「また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」(出エジプト20:20)と言ったことから分かります。すなわち、人は神を恐れると、神の裁きも恐れるので、道徳的な善へと導かれることになるのです。このため、根本的に有神論である日本人は、諸外国の人々から驚かれるほどの道徳性を持っているわけです。もっとも、日本人の思い描いている神が、聖書で啓示されている真の神と一致していないという点に注意しなければいけないのではありますが。私はこのような宗教性を持つ日本人を考えると、これから日本人もキリストを受け入れるのではないかと希望を持ちます。今になって思うと、日本人はイエス・キリストに文句を言っていないことに気付かされます。日本人はただ主のことがよく分からないので黙っているだけなのです。ニーチェのように反キリスト的な発言をしている日本人は全く見られません。むしろ、松下幸之助もそうでしたが、キリストのことを「素晴らしい」と称揚している日本人がちらほら見られるぐらいです。このように日本人がキリストを大胆に否定していないからこそ、神もアメリカの同盟国として日本に経済的な祝福を与えておられるのでしょう。もし日本人が反キリスト的であったとすれば、神の祝福がアメリカから日本にも流れ込むことはなかったでしょうし、そもそもアメリカの同盟国になっていなかったはずです。というわけで、日本人はこのようなのですから、これからもキリストの福音が宣べ伝えられて行かねばなりません。もしかしたら、これから日本人もその多くがキリストを信じるようになるかもしれないのです。この静岡市の教会を見る限りでは、私の所感を言えば、あまり伝道が熱心に行なわれていないように思われます。静岡市だけでなく他の市や県、また日本の全体もこのようであるならば、これから日本の教会全体における伝道熱が上げられていかねばならないでしょう。