週報:【福音の拒絶に対する免れ得ない裁き】(2022/07/03)


「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた」(ローマ4:25)というキリストの救いを聞いても無視し続ける人間が、裁かれないままでいることは決してありません。その人は、せっかく父なる神がそのひとり子を世に遣わし、私たちのために永遠の贖いとして下さったのに、御子の福音を無視し、受け入れず、蔑ろにし続けているからです。このような人間がどうして神の御怒りを受けずに済むでしょうか。この世で殺人を犯した者は間違いなく裁かれるでしょう。であれば、尚のこと、聖なる福音を退け続ける者は裁かれます。何故なら、殺人よりもキリストの御救いを拒絶するほうが、遥かに罪深いからです。殺人の罪であればキリストの御救いにより清められますが、キリストの御救いを拒絶するのであればどのようにしても清めはないのです。聖書を見ると、どうでしょうか。パウロは福音を拒絶したユダヤ人を見限りましたが(使徒の働き13:44~47、18:5~6)、ユダヤ人は福音を信じなかったので、紀元70年に裁かれて滅びました。キリストも、御自分を受け入れなかったコラジンとベツサイダとカペナウムの町に対し、裁きを宣告されました(マタイ11:20~24)。キリスト御自身が、救いを信じない者について、こう言われました。「信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:16)つまり、福音を信じない者は罪人として神から裁かれるということです。神の憐れみそのものである福音を受け入れない者に、決して憐みが与えられることはなく、あるのはただ神の裁きのみです。ルターも福音をユダヤ人たちに宣べ伝えたところ拒絶されたので激怒しましたが、彼が激怒したのは誠にもっとなことでした。もしルターの激怒を問題視する人がいれば、その人は御子の救いなど別にどうでもいい事柄だと思って軽視しているのです。三島市では福音が豊かに宣べ伝えられましたが、三島市は福音を拒絶したので、神からの裁きが下されたと私は思います。私が三島市で熱烈に福音を宣べ伝えたところ、明らかな変化があったのです。すなわち、私が三島市の人々にキリストを伝えると、人々の雰囲気が何だか荒んだようになり、やたらと車のクラクションが鳴らされるようになり、毎日のように行方不明者の広報が流され、ケムトレイルと思われる白い物体が空によく見られるようになりました。2010年には三島市内を騒がせ100人以上に噛みついた「らっきー」という名のニホンザルが有名になりました。この時期は伝道が活発に行なわれていましたから、私は間違いなく神からの裁きが猿を通して三島市に注がれていると感じました。この時には多くの三島市民が恐れたり警戒したものです。つまり、この猿は神の裁きとして楽寿園から逃走させられ大騒動を引き起こしたわけです。また2011年に三島市はマスコットキャラクターとして「みしまるくん」と「みしまるこちゃん」を誕生させましたが、この見苦しく下品極まりない低俗なキャラクターは、神から三島市に与えられた罰でなくて何でしょうか。私はこのキャラクターが誕生した時、三島市で熱心に伝道していました。それから三島市では有名なスカイウォークが出来たりして、ますます注目される街となりました。詰まる所、最終的に福音を退けた三島市が受けた神からの裁きはこうです。「霊から遠ざけられ肉の深みに陥らされる。」昨年は焼津市でも伝道しましたが、全く反応が無かったので、いつか神の裁きが下るに違いないと思っていました。十分な内容をもった教会伝道誌をかなり配布したのに、焼津市の人々は全くキリストを信じようとしなかったからです。焼津で全国的に有名となったカツオ不正事件は、私が焼津で伝道してから2か月後ぐらいにニュースとなりましたから、これは神からの裁きなのでしょう。焼津の人々が福音を拒絶したので、神が裁きとして焼津に災いを齎し不名誉を被るようにされたのです。私はこのニュースを見た時に「間違いなく神からの裁きだろう。」と思いました。では、この静岡市はどうなのでしょうか。静岡市では三島市と焼津市の何百倍、何千倍もの伝道が行なわれていますから、静岡市が福音をこのまま拒絶し続ければ裁かれるのは10000%間違いありません。もちろん私が静岡市に裁きを望んでいるというのではなく、私はただ聖書から分かることをありのままに言っているだけです。しかし、静岡市にはもう長らく伝道が行なわれているのに、不思議なぐらい裁きまた裁きの前兆が起きているとは感じられません。これほどまでに長く豊かに聖なる福音が宣べ伝えられているのにもかかわらず裁きをまだ感知することもなければ、神の静岡市に対する御心も分からないままなので、私はこれから静岡市でどのような神の働きかけがあるのか非常に気になっています。神が福音の宣べ伝えられているこの静岡市の人々にこれから何も働きかけないということはあり得ないことです。何故なら、父なる神は福音そのものであられる御子を愛しておられるからです。これから大きな災いが下される際に弁解の余地を無くすため、静岡市の人々が大きな裁きに相応しい状態となるべく、長らく福音が宣べ伝えられているということなのでしょうか。それとも植物が成長するのと同じように、福音の種は実を結ぶまでに時間がかかるということなのでしょうか。私は後者のほうを望みますが、御心が前者であればどうしようもありません。