週報:【天国はどのような場所か】(2022/07/31)


ルターにも影響を与えた哲学者ヴァラ(1407頃~1457)が書いた「快楽論」というよく知られた本では、天国がどのような場所なのか色々と述べられています。この言説はなかなか興味深いのですが、私たちの信仰基準は聖書ですから、ヴァラの天国論については鵜呑みせず、一つ一つ聖書から確かめて行かねばなりません。①:まずヴァラは天国が快楽に満ちた場所であると言います。これは聖書から分かることでしょう。キリストはしっかり歩んでいた聖徒たちが天国で報いを受けると言われました(マタイ25:21、23)。報いとは喜びを齎すのであり、喜びとは快楽そのものでなくて何でしょうか。また黙示録21:4の箇所では天国について「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」と書かれています。これは逆に言えば天国では快楽しか存在しないということです。こういうわけで、地獄に行った者たちは天国の聖徒たちが至福の快楽を受けているのを見て「泣いて歯ぎしりする」(マタイ25:30)わけです。②:ヴァラは天国で私たちの外観が地上と同じままに保たれると言います。これも正しい理解です。何故なら、復活されたキリストの御身体は復活される前と同様であって、その手には死なれた時の傷跡がそのまま残っていたからです(ヨハネ20:24~27)。パウロは、キリストが復活されたように私たちも復活すると言っています(ローマ6:5)。ですから、キリストが復活後に復活前の外観を持ち続けておられたのと同様、私たちも復活後の外観は復活前と変わらないのです。もっとも、天国で復活体になった時、全てが復活前と同じ状態に保たれるというわけでもありません。復活してから外観は同じであっても、身体が輝きを放つようになりますし(マタイ13:43)、その身体は朽ちることも傷つくこともなくなるからです。③:ヴァラは天国でも親と子など地上における親族関係がそのまま保たれていると言います。これも恐らくそうだと思われます。何故なら、ルカ福音書で書かれているアブラハムと金持ちの会話を見ると、死んでからも地上での人間関係が明らかに意識されているからです。天国でも地上での人間関係が意識されないことはないとすれば、天国でも地上での人間関係を前提とした交わりがあることになります。④:ヴァラは天国で結婚があるのかどうか確信を持てていないようでした。天国での結婚は明白に否定されます。何故なら、キリストは天国にいる復活者たちが「めとることも、とつぐこともな」(マタイ22:30)いと言っておられるからです。⑤:ヴァラは天国にいる聖徒たちがそれぞれ異なった度合いの祝福を受けると言っています。これは聖書が教えている通りです。キリストは「朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。」(ルカ12:33)と言われたからです。これはつまり、より天国のために頑張った者ほどより多くの祝福を天国で受けられるということです。神は報いの神であられますが、神はこの地上で報いを与えられるだけでなく、天国でも報いを与えて下さいます。地上での報いが人それぞれ違うように、天国での報いも人それぞれ違います。こういうわけで、私たちはこの天国に目を上げて地上での人生を歩んで行かねばなりません。私たちがこの天国に入るためキリストは御自分を永遠の犠牲として下さったからです。まだキリストを信じていない人は、キリストを信じない限りこの天国に入ることができません。この御方への信仰なしに人は天国に入る特権を受けられないからです。もし信じなければ天国はなく地獄に投げ込まれてしまいます。