週報:【偉大な政治家とは誰か】(2022/08/21)


7月に亡くなった安倍氏に対しては、国内でも国外でも、優秀また素晴らしい政治家だったなどと高い評価をしている人が多く見られます。もちろん、この評価に異を唱える人も多くいます。それは、格差を拡大させたとか嘘を多く付いたとか安倍氏における負の面に着目するからです。しかし、海外の人たちはそのほとんどが安倍氏を高く評価しました。林外務大臣は7月12日の会見で「これまで259の国・地域・機関等から計1700件以上の弔意メッセージが寄せられている」と発表しましたが、この莫大な弔意メッセージは外国人の高評価が反映されていると見てよいでしょう。もし高く評価されていなければ、こんなに多くのメッセージが送られたかどうか分かりません。私たちとしては、安倍氏が旧統一教会と関わっていたのですから、安倍氏を褒めるわけにはいかないでしょう。「おしえを捨てる者は悪者をほめる」(箴言28:4)のですから。カルト宗教と関わっていた安倍氏を褒めれば、カルト宗教や異端グループに対する抵抗感を取り去られるという呪いを神から受ける可能性が高いのです。さて、このように一般的に見れば高く評価されている安倍氏が偉大な政治家だったとは決して言えません。それは何故なのでしょうか。それは聖書から考えるならば、偉大な政治家とは、神の御心をその国において実現させた政治家のことだからです。すなわち、司法律法を現代的な形でその国家に適用させるのが真に偉大な政治家です。例えば、死刑が執行されていなかったり執行されていても執行のスピードが遅いのであれば迅速に死刑が執行されるようにしたり、同性愛が法において禁止・処罰されるようにしたり、刑務所から出所しても再犯者が続出してしまう非聖書的な懲役刑を廃止させ聖書的な同害刑法を徹底させたりする、というのがそうです。ダビデやコンスタンティヌス大帝は偉大な政治家でした。彼らは司法律法により自分の国家を動かそうとしていたからです。ところが、安倍氏に神の御心を国家で実現させるなどという考えは全く無かったはずであり、ただ「自分の悟りに頼る」(箴言3:5)というやり方で国家を動かしていただけです。このような政治家が偉大だったとは間違っても言えません。今述べた考えに基づいて言えば、今の世界ではどこにも偉大な政治家がいないことになるでしょう。どの政治家も神の御心を国家に実現させるなどということは考えていないだろうからです。安倍氏は政治が何のために存在しているのかさえ理解できていませんでした。そもそもこの世界と私たち人間が何のために存在しているのかという最も基本的な事柄さえ知らないのに、どうして政治の本質とその意義を理解することができましょうか。ありえないことです。私は言いますが、政治とはすなわち「神の御心をその国家に実現させるための社会的なシステム」です。この世界と人間は神のためにこそ創られたというのに、そのようなことも知らず、ただただ自分勝手な思いに基づいて政治を行なう人が、どうして偉大なのでしょうか。もし聖書の知識に基づいて政治を行なわなければ、その国家で神の御心が行なわれることはほとんど不可能に近くなります。そのような国家は神の御心に適いません。だから、今の日本には多くの呪いが神から注がれているのです。だから、今の日本では悲惨な問題が沢山あるのです。だから、今の日本人は政治や政治家に対して心から満足することができていないのです。現代日本が神の御心を政治において実現させようとしていれば、呪いもあまり注がれていなかったでしょうし、悲惨な問題もここまで多くはなかったでしょうし、大衆も政治や政治家に心から満足することができていたでしょう。こういうわけですから、私たちは神の御心が政治を通して国家で行なわれること、また御心の国家的な実現を求める政治家が現われること、この2つを求めねばなりません。何故なら、主は「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」(マタイ6:10)祈れと言われたからです。国家における神の御心は司法律法で示されています。しかし、その律法は古代ユダヤ社会に適合する形・言い方で命じられていますから、現代ではその律法から政治における神の御心が何であるか汲み取り、本質部分を損なわないようにして国家で適用すべきなのです。もし司法律法の国家における現代的な適用を願わないクリスチャンがいたとすれば、その人は「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれ」ることを願っていないのです。何故なら、「みこころ」とは司法律法に示されているのであって、「地」とは国家の政治領域を含む言葉だからです。そのような人は、神の御心ではなく人間の自分勝手な思いが地でも行なわれたらいいと願っています。