週報:【福音の真理が受け入れられないことについて】(2022/09/04)


日本人が聖書の真理を受け入れないままでいるのは、何に例えることが出来るでしょうか。それは文明を未開部族の地へと持ち運ぼうとしたのに未開部族から拒絶されるのと似ています。未開部族の多くは、たとえ不便なままでも今の状態がそのまま続くことに固執するので、文明により快適さと幸福が得られると聞いても、文明を受け入れようとしません。「俺たちは別にそんなのいいよ。今のままで構わないさ。」と言うのです。すると文明を持ち運ぼうとしてやって来た文明人たちは、怒らないにしても「ああ…。」などと溜め息を漏らしたりして残念がるのです。教会がキリストの福音を宣べ伝えても日本人から無視・拒絶されるのは、これとそっくりです。日本人は聖書の真理を受け入れなくても別に何ということはないと思っています。何故なら、日本人のほとんど全ては聖書の真理を真理として認識しない、否、認識できないからです。それはパウロがこう言っている通りです。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Ⅰコリント2:14)つまり、聖書の真理を別にどうでもいいと思っているからこそ、それを受け入れなくてもどうということはないと思うのです。もし真理をどうでもいいと思わなければ、それを受け入れないということはなかったでしょう。しかし、日本人が真理を受け入れなくても何ということはないと思ったとしても、真理を受け入れなかった報いが必ずいつか神から下されることになります。ユダヤ人はキリストという真理を受け入れなかったので、裁きとしてローマ軍に滅ぼされてしまいました。江戸時代の日本もキリストを拒絶し続けていたので、やがて自分たちの避けていたキリスト教の社会が作り上げた文明に呑み込まれてしまいました。西洋化という日本人が避けていた宗教を奉じている国に感化される現象は、神からの報いでなくて何でしょうか。キリスト教を禁止した徳川家が明治維新の出来事を見れたとすれば、目を丸くするに違いありません。今の日本人も未だに聖書の真理を受け入れないままでいます。ですから、やがて日本に神の報いが下されるのは間違いありません。真理について聞いていながら受け入れようとしないのであって、何も聞いていないというわけではありませんから、日本人に弁解の余地はないのです。このように日本でキリストの福音が受け入れられていないままの状態が続いているからというので、教会は諦めて伝道を止めるべきなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。状況が悪くても真理は広められねばならないからです。それはパウロが「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(Ⅱテモテ4:2)と述べた通りです。たとえ多くの人々が真理の言葉を受け入れなくても、その受け入れないという事実により、その人たちが永遠に断罪されるべき罪人であるということを明らかにしますから、それだけでも真理の言葉を宣べ伝える意味があります。つまり、この場合、神の御前で完全に弁解の余地を無くすために伝道が行なわれたことになります。もちろん教会は人々が救われるために伝道をしますが、真理を受け入れない人たちの場合は結果として断罪の意味が生じることになるのです。ですから、人々が福音を受け入れないからといって全く無意味だということはありません。神は福音を聞きながら受け入れようとしなかった人々の不信仰を地獄で永遠に裁かれるでしょうから。