週報:【契約と日本人の救い】(2022/09/18)


神は契約的な御方であられます。神の位格間に完全な契約があることは疑い得ません。すなわち、御父と御子および御霊の間には完全な契約があり、御子と御父および御霊の間にも完全な契約があり、御霊と御父および御子の間にも完全な契約があります。神は御自身が契約的であられますから、被造物も契約的に御覧になり、また取り扱われます。これは聖書から明らかに分かります。パウロは聖書で「ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされる」(ローマ5:19)と言っています。神は、キリストまたはアダムという人類の代表者により、全ての人間を契約的に見られます。ですから、信じる者はキリストのゆえに「義人とされ」、信じないでいる生まれながらの人間は全てアダムのゆえに罪人でい続けるのです。パウロはまたこう言っています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなの家族も救われます。」(使徒の働き16:31)これは看守に言われた言葉ですが、神は看守に与えられた救いを、その看守と契約的に一体である家族にも及ぼされました。これは家族が契約的に一体であるためです。ラハブの救いが、ラハブに属するラハブの家族たちにまで及ぼされたのも、やはり神が契約的に事を為さる御方だからです。このような契約の事柄を考えるならば、日本人の救いには天皇の救いが重要な意味を持っていることに気付かされます。何故なら、日本人は民族として契約的に一体であり、その契約における代表者は天皇だからです。もし日本人の多くが救われるとすれば、それは神が日本人を民族的に憐れまれたということです。もし神がそのように日本民族を憐れんで下さるならば、個々の成員だけでなく天皇という民族的な契約の代表者をも同時に憐れんで下さるはずです。パウロは看守が救われるならば看守の家族も救われると言いましたが、それと同じで、天皇が救われるならば天皇を代表者として持つ日本国民も同時に救われるはずだからです。古代ローマにキリスト者の国民が充満した紀元4世紀も、やはりローマの契約的な代表者である皇帝が救われていました。つまり、神がローマの国民を憐れまれたので、その首長である皇帝をも憐れんで下さったのでした。今の天皇はまだ偽りの神々の中に捨て置かれ全く放っておかれたままでいます。今の天皇家に神の霊的な憐れみは全く注がれていません。これはまだ神が日本という国を憐れんでおられないことを意味します。もし憐れんで下さっておられたとすれば、代表者である天皇も成員である多くの国民も救われていたでしょうから。つまり、神は契約的に事を為さるため、日本という契約的統一体に憐れみが注がれる場合は、代表者と成員がどちらも救いに与かれるはずなのです。このため、今の日本ではほとんど全ての人が救いから遠ざけられているのです。こういうわけなので、契約的に考えれば、天皇の救いは日本が神から憐れまれているかどうかを示すバロメーターであると言っていいでしょう。もし天皇が救われたならば、それを見た多くの日本人も救いを求めるようになるはずです。そうでなければ、日本人の多くが救われているリバイバル的な状態の最中にあって、天皇も救われるようになるのでしょう。契約的に言えば、天皇は頭であり国民は肢体です。頭だけ救われて肢体のほうは救われていないとか、その逆である、というのは考えにくい話です。「契約」とは運命を共にすることですから。それゆえ、日本人が民族的に救いを受けられるために、天皇の救いが切に願い求められなければなりません。天皇のために祈るというのはパウロが命じていることですから(Ⅰテモテ2:1)、祈らないのは御心に適いません。日本人の象徴である天皇が救われないのでは、日本人の多くが救われなかったとしても不思議なことはありません。