週報:【日本人の民族性と救い】(2022/10/23)


日本人が救い主キリストを受け入れようとしないのは、恥ずかしいからというのも理由の一つとしてあるのかもしれません。海外の人も指摘する通り、日本人という民族はシャイな傾向を強く持っています。ですから、世界で日本人はおとなしい人たちだと思われています。中国人と韓国人は臆面もなくずけずけ何でも言うので、おとなしいとは思われていません。日本人が恥ずかしがりだというのは、自分自身で自分たちのことを考えてみても、別に間違っているとは感じられないはずです。主イエス様は正しく信じられなければなりません。例えば、アリウスのようにキリストは父なる神と同一の本質を持っていないと考えたり、東方正教会のように聖霊がキリストからは出ていないと考えたり、スピノザのようにキリストは復活されたと信じるものの幻影のようにして復活されたなどと考えたりしてはなりません。主を正しく信じるためには、やはり正しい教えを教会で学ばなければなりません。教えられることなしに正しいキリスト信仰を持つのは難しいでしょう。キリストについて聞かされなければキリストをどうやっても信じることができないのと同じです(ローマ10:14)。もしキリストについて教えられるとすれば、日本にいる世の人々は赤子同然になります。何故なら、教会で教える者は大人のようにキリストをよく知っている一方、教えられる者は赤子のように何も知らない状態だからです。赤子のようになるのは恥ずかしいことです。日本好きな外国人も日本人と日本語で話すとほとんど赤子のようになるので、日本語で話すことを恥ずかしがります。こういうわけで、日本人が恥ずかしがりなのでキリストという真理になかなか近寄れないというのは十分考えられる話なのです。更に教会が日本で神社やお寺のようにスタンダードな存在ではないという現実も、日本人が真理に近付こうとしない傾向を強めていると思われます。スタンダードでなければ恥ずかしがり屋の民族がより近付きにくくなるのは間違いないからです。神社やお寺の場合はスタンダードですから、日本人は恥ずかしがることもなく近付くことができています。日本人がこのように人間的な理由から真理を求めようとしないのは、日本人の大部分が地獄の刑罰に定められているからです。日本人の多くは、あの異邦人たちについて言われたように、「そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった。」(使徒の働き13:48)という御言葉の通りになることがありません。それは日本人の多くが信じて癒されるということにならず、むしろ信じず滅びるということになるためなのです。もし日本人の大半が地獄に定められていなければ、日本人は恥ずかしくても真理を求めに来ていたことでしょう。もしくは日本において教会がスタンダードなので、教会に行っても恥ずかしくない社会状況が生じていたことでしょう。しかし、今はこのようであっても、これからはどうなるか分かりません。シャイな日本人がこれからキリストを受け入れるようになる可能性もないわけではありません。是非、そのようになる時代が来るのを期待したいところです。