週報:【ストア派という狂気】(2022/10/30)


古代ギリシャと古代ローマにおける有名な哲学の一派であり、今でも哲学書で言及されることの少なくないストア派は、今で言えば資本主義や共産主義のようなものです。この哲学は非常に道徳的であることで知られていますが、聖書の光に照らされていないので、間違いも多くあります。本日はそのうち2つの間違いを見たいと思います。まずストア派は、あらゆる事柄を「意志に関わるもの」と「意志に関わらないもの」の2つに区別します。前者は意志に基づいて行なわれる事柄であり、収賄・殺人・ボランティアなどがそれです。このような行為は何らかの意志により生じるからです。後者は意志に基づいていない事柄であり、生きることや死ぬこと、台風や晴天、冤罪による投獄などが該当します。このような事柄は意志と無関係に起こるからです。ストア派は、このうち意志的な事柄だけに善悪があるとし、意志と無関係な事柄には善悪が存在しないと考えます。何故なら、非意志的な事柄は自分の意志と関係なく起こるので、善であるとも悪であるとも言えないと考えるからです。しかし、この考えは間違っています。意志と無関係な事柄でも善悪がしっかりあるのは明らかだからです。例えば、ストア派が善でも悪でもないとする「生きること」は、神の命を物質的に象徴する状態ですから間違いなく善です。また「死ぬこと」は聖書が教える通り「罪から来る報酬」(ローマ6:23)なのですから、明らかに悪です。ストア派は聖書の光に照らされていないので、暗闇を歩く盲人のようにこのようなことが分かっていないのです。2つ目の間違いは、ストア派が「平静」を人生における最上の要素としていることです。ストア派は「不動心」を得ることを自分たちの目的とします。すなわち、彼らが哲学をするのは何事にも揺るがなくなるためです。ですから、ストア派の信奉者は、知り合いが死んでも、国家に危難が襲いかかっても、騙されて投獄されても、家に強盗が入って何かを奪われても、常に平静でいられます。前述の通り、このような事柄はストア派からすれば意志と無関係に起こる外部的な事柄ですから、善でも悪でもなく、それゆえ動じないでいることが出来るのです。彼らにとって善悪は意志に関わる脳内の事柄だけですから、自分の意志で悪を犯さないことにより落ち着いたままでいるのが全てなのです。このため、ストア派はたとえ暴徒に親友を殺されたり誰かから妻を横取りされたとしても平静でいられます。「それは起こるべくして起こったのだから善でも悪でもないため、私はそれを平静な心で受け入れるだけだ。」と言うのです。しかし、これも間違っています。彼らは自分と平静さを己の神としているからです。彼らは「神に従うことで心の平静を得るべきだ。」と言いますが、これは神を神としているので従っているというより、自分および平静という神のため神を利用しているだけです。つまり、ストア派の信奉者とは偶像崇拝者に他なりません。実のところ、彼らには神への愛も敬虔もないのです。何故なら、彼らはまず自分とその平安を価値基準の頂点に置き、その下に神を位置付けているからです。このストア派は昔からキリスト教に近い思想と倫理観を持っているとたびたび言われてきたのであり、セネカやエピクテトスといったストア派の古代人が述べた言葉を見ても確かにそうだと感じられますが、キリスト教とは似て非なるものです。この哲学は、自分の理性に基づいて勝手な思想体系を捏ね上げるという点で、他の哲学や思想と変わるところがありません。キリストの御救いがそこにないという点もそうです。