週報:【答えは聖書にある】(2022/12/11)


究極的に言えば、この世界と人間の理由・意味・目的という事柄ほど、私たちにとって重要な問題はありません。これはどう考えても明らかです。究極的な事柄が真実においてどうであるか、またその事柄に対し私たちがどのような理解を持つか、ということにより私たちの思想、生き方、態度、言葉、行為、精神、要するにあらゆる点が変わってしまうからです。例えばオウム真理教の場合、ずっと悪く生きて輪廻の苦しみを味わい続けるならば、そのような人間はなるべく早く死んで輪廻の流れから解放されたほうが遥かに良いと考えました。このため麻原彰晃は、出来る限り多くの日本人をポアしようと計画したのです。彼の思想が彼にポアせよと命じるからです。日本人の場合、その大半が究極的な事柄においてしっかりした理解や考えを持てていません。このため日本人は毅然とした精神を持てず、何であれ表面的になりがちであり、宗教や思想や哲学や政治といった領域に疎いままでいます。マッカーサーは日本人が政治面で幼稚園児も同然だと評しました。究極的な事柄できちんとした考えを持てていないのですから、政治においても未熟であるのは自然なことです。もしオウム真理教が、正統的なプロテスタントの教義を持った宗教だとすれば、多くの人々をポアしようとはしなかったでしょう。もし日本人が、どの教派であれキリスト教を奉じていたとすれば、ここまで不定見であることは無かったでしょう。この通り、究極的な事柄は私たち人間の全てを左右し規定付けます。これが最も根底的な事柄です。ですから、これほど重要な事柄はありません。「しかし、何が正しいかは分からないから不定見なままでいるのが最も無難だ。」などと考える人がいれば、自分の思考不足を自ら暴露しています。何故なら、もし何も分からない不定見な状態でいるとすれば、何も分からないのだからそもそも不定見でいることが本当に無難なのかどうかも分からないのではないか、ということさえ思考できていないからです。ですから、何も分からないのであれば定見を持たないのが無難だなどと考えるのは、無難であると言い難いのです。これは健康に全く無知な人が「どの食物が健康に良くて悪いかは分からないから、取りあえず何も食べないか、たとえ食べてもほんの少しだけにするのが無難だろうな。」などと思い、実際に絶食したり食べても3日に1食ぐらいにするのと同じです。この人の考えが健康的に無難でないのは火を見るよりも明らかです。この人は餓死したり栄養失調になるだろうからです。分からないのであれば、調べたり分からないながらも求めたりすべきなのです。究極的な事柄でも健康のことでも、こうするのが最も無難です。日本人は究極的な事柄を何も求めようとしていないので、その大半が宗教や思想や哲学などといった領域で死人同然か栄養失調状態となっています。これらの領域で日本人が弱いのは、日本人も自分自身でよく分かっているはずです。確かなところ、究極的な事柄に対する答えは、聖書/キリスト教だけにあります。他の宗教や思想には答えがありませんし、前述の通り不定見も何も解決とはなりません。聖書は究極的な事柄についてこう教えています。世界創造以前には三位一体の神だけが永遠に存在しておられた、この世界は今から6千年前に6日間で創造された、神に従うよう創造された人間は罪を犯したので刑罰として死ぬこととなった、神は罪により堕落した人間を救うため御自分の御子をこの世界に遣わし十字架に架からせた、この「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)この御子による救いを受ける人間だけが、その内面に正しい人間像を形成されます。その人には、神の御力が御恵みによりキリスト信仰を通して働くからです。