週報:【宇宙の生成と奇跡について】(2022/12/18)


例えば、どこかにある木を見た人が「この木は無から生じたのだ。」と言ったとすれば、どうでしょうか。この人は周りの人から狂っているとか冗談を言っているなどと思われるでしょう。この言葉の意味を理解できない人も多いはずです。これまでこのようなことを言った人はいませんでしたし、これからもいないかもしれません。確かにこの人はおかしく思われても仕方がないかもしれません。何故なら、普通に考えて木が無から生じたなどというのはありえず、受け入れられないことだからです。しかし、究極的に見れば、このように言うのは何も間違っていません。というのも、この宇宙は無から生まれたのであり、木はその宇宙を構成する一つの部分だからです。宇宙が無から生まれたのであれば、その宇宙に内包される木も無から生まれたと考えて間違っていません。もし木が究極的な意味で無から生まれたことを否定するならば、その木を構成要素として持つ宇宙が無から生まれたことも否定せねばならないでしょう。この木と宇宙について考えると、人間は愚かだと言わざるを得ません。多くの人は木が何もない場所から生じることを認めないでしょう。それどころか葉っぱの1枚でさえ無から生じることを否定するでしょう。それなのに、その木また葉っぱが含まれる宇宙の全体は無から生まれたことを信じるのです。木や葉っぱが無から生まれることよりも、宇宙の全体が無から生まれることのほうが、遥かに難しく大きな現象であることは誰でも分かります。この宇宙は木や葉っぱに比べ、どれだけ複雑でしょうか。宇宙が無から生まれたことを信じれるのであれば、木や葉っぱが無から生まれることも信じれてよさそうなものです。ところが、宇宙に比べれば何でもない木や葉っぱは無から生まれたりしないと考えるのが人間なのです。この宇宙が無から生じたことを認めるならば、木や葉っぱが無から生じることもあり得ると認めるべきでしょう。私が何を言いたいかといえば、主イエス・キリストの奇跡を信じるべきだということです。キリストは、木や葉っぱを無から生じさせるかのような驚くべき奇跡を無数に行なわれました。例えば、僅かなパンを数千人に食べさせるため増殖されたり、水を葡萄酒に変化させたり、盲人に視力を与えたりなさいました。主は、木や葉っぱを無から生じる奇跡も行なうことが出来ました。福音書でも言われている通り、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)キリストはこの世界を創造された神ですから、そこに無かった物や能力を奇跡により生じさせることが出来たのです。世界の創造に比べれば、そのようなことは神にとって造作ないことでした。キリストは、御自分が神の御子であられることを示すため、証拠としてそのような奇跡を行なわれました。この世界を造られた神であれば、世界を無より生じさせたぐらいですから、無から何か生じさせるという奇跡を行なえるに決まっているからです。もしキリストが神の御子でなければ、このような奇跡は行なえなかったでしょう。その奇跡は福音書の中でしっかり記録されています。ですから、日本人はこのキリストを救い主である神の御子として信じるべきなのです。もし信じなければ自分で自分の罪を負わねばならず、永遠に罪人として裁かれます。「信じない者は罪に定められます」(マルコ16:16)と書かれている通りに。