週報:【日本人が霊的な事柄に精神を傾けない理由】(2023/01/08)


日本人には、聖書の真理を話しても、ほとんど無意味に終わってしまいます。霊的な話になるか、霊的な話になりそうだと、その話から精神的にすぐ退避しようとします。聖書の事柄には精神を向けず、何か別の事柄に話題を転じようとします。つまり、キリスト教という土俵の上に全く上がろうとはしません。私はこれまで何度もこのことを経験してきました。私が聖書やキリスト教について話そうとすると、それを聞いている人はあたかも私が何も話していないかのように別な事柄へと話を持って行こうとするのです。欧米人の場合はこのようでありません。例えば、イタリア人がスイス人と話をする機会があれば、普通にスイスの教会事情を色々と尋ねたりします。欧米人であればノンクリスチャンでも、キリスト教の事柄について自然と言及するものです。日本人が聖書のことに無関心・無反応であるのは3つの理由を挙げられます。一つ目は、日本人が精神的な深みや高さを見る精神の視力をほとんど持たないということです。日本人は精神的に近視眼であり、内的な事柄をよく見ることができず、どうしても表面的になりがちです。そのため、日本人は精神的な奥深さが要求されるものであれば、宗教だけでなく政治や哲学や思想でも巧みになることができません。しかし、精神的な深みを求められなければ明瞭に見えるので、商売であれ工業であれ娯楽であれ科学であれ巧みに行なうことができます。二つ目は、日本人がキリスト教の伝統を持たないということです。人は、子どもの頃から馴染んで来た社会の世界観に基づいて、大人になってからも物事を見ます。日本人は小さい時からキリスト教とほとんど無関係に育ちますから、キリスト教の事柄に対して目を開くことができないのです。欧米人の場合、キリスト教の伝統がある社会で育ちますから、キリスト教の話に自然と入ることができます。三つ目は、日本人のほどんどが霊的な死人であるため、霊的な事柄をどうしても愚かに感じてしまうということです。霊的に死んでいる人たちについて聖書ではこう書かれています。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。」(Ⅰコリント2:14)三つの理由の中で、この三番目が根本的かつ最大の理由です。つまる所、今の日本人は霊的に呪われています。霊的に呪われているので、これら三つの理由により、聖書の事柄に精神を傾けることが出来ないのです。欧米人の場合、日本人のように霊的な呪いを受けていないので、キリスト教の事柄に抵抗なく接することが出来るわけです。今の日本人はこの通りですが、やがて日本人も聖書に目を開ける時代が来るのを願うところです。アーメン。