週報:【異教的な伝統により真理を拒むこと】(2023/01/15)


日本とアメリカでは、やはりキリスト教的にかなりの違いが見出されます。アメリカの場合、教会はどこにでもあり、道を歩いていれば頻繁に見かけることができます。大きな教会堂が目立つ通りに建っていたり、十字架が高く掲げられていたりするからです。宗教施設として見られるのは教会ぐらいであり、当然ながら神社やお寺は見かけません。一方、日本では教会がそこまで多く見られず、よく目にするのは神社やお寺ばかりです。アメリカであれば看板や服などに「ジーサス」と書かれているのは珍しくありません。テキサスのある場所では、「jesus gives hope」(イエスは希望を与える)と書かれた巨大な看板があり、非常に目立っています。ここまで大胆な看板は日本において見かけません。アメリカでは会話や演説でも聖書やキリスト教に言及されることが珍しくありません。バイデンも就任演説の中で詩篇から引用していました。日本では聖書やキリスト教に言及されることが、ほとんどありません。日本にいる人は、そもそも聖書やキリスト教をあまり知らないことがほとんどだからです。無知であれば言及することも出来ません。日本人は、このような状況の違いを、伝統や歴史性により説明しようとするはずです。「我が国は昔からキリスト教とあまり関わりがないのだ。」などと言うでしょう。しかし、伝統がどうであれ、聖書が神の言葉である真理だということに変わりはありません。詩篇に書かれている通り、「みことばのすべてはまこと」(119:160)です。パウロがテモテへの手紙Ⅱで書いた通り、「聖書はすべて神の霊感による」文書です。日本と日本人が伝統的にキリスト教とあまり関わっていなくても、聖書の真理は日本人に対して有効です。日本が歴史的に聖書と薄い縁しか持たなかったとしても、聖書の真理が日本人に対して偽りとなるわけではありません。聖書の真理はあくまでも真理であり続けます。日本人はよく考えようとしないので、このようなことさえ分からないままでいます。こういうわけで、日本人は伝統に適っていなければ聖書の真理を無視し続けていても構わないと、今に至るまでずっと勘違いし続けています。これは今の日本人が地獄に定められているからです。これこそ霊的な縛りであって、それは「伝統による拘束」とでも呼ぶべきです。伝統のせいで真理を蔑ろにしているわけです。これは日本人に与えられた霊的な呪いであると言わねばなりません。例えば、未開人に文明を勧めても「その文明とやらは俺たちの伝統にどうも合わないね。」などと拒まれるので、その未開人はいつまでも未開状態に留まり続けねばなりません。日本人も聖書の真理を伝統がどうのなどと言って拒んでいるので、霊的な未開人として今でも霊的に低い状態のままで留まっているわけです。