週報:【よく考えられないので間違ったままでいる事柄】(2023/01/22)


教会やキリスト教に関する一般的な発言や文章で、全く間違っていたり表現の正しくない事柄が世には多く見られます。それらはどれも、霊性の低さ、思考の不足、聖書的な知識の欠如、愚かさなどに基づいています。簡単に言えば、御恵みを豊かに受けていないということです。本日の週報では、そのような事柄を4つ見たいと思います。まず一つ目は、昔の敬虔な聖徒が「聖○○○」などと呼ばれることです。例えば「聖アウグスティヌス」とか「聖ベルナルドゥス」とか「聖トマス(・アクィナス)」などがそうです。カトリックは今でもこのような呼び方を継続していますが、プロテスタントはもうこういった呼び方をしていません。このような聖徒たちは確かに敬虔で神から用いられた注目すべき器だったかもしれませんが、だからといって名前の前に「聖」を付けるのは正しくありません。何故なら、昔の敬虔な聖徒を「聖○○○」と呼ぶならば、何だか彼らだけが聖なる神の子たちであり、このように呼ばれない一般の聖徒たちは聖でないとも思えてしまうからです。しかし、聖書が教えている通り、キリストにより清められた聖徒たちは誰であっても聖なる存在です。二つ目は、カトリック教徒なのに「敬虔」だと言われる場合があることです。300人以上もの少女を殺害した「アンデスの怪物」と呼ばれるペドロ・ロペスという有名な犯罪者(現在は74歳で逃亡中)はカトリック教徒ですが、ウィキペディアでは彼が「敬虔なローマ・カトリック教会の信者であった」と書かれています。マザー・テレサもカトリック教徒であり、一般的には敬虔だったと認識されています。しかし、カトリック教徒であるという時点で既に敬虔だとは言えません。何故なら、カトリック教会には教義的な誤謬が多く、迷信が満ちており、それは偽りの教会だからです。カトリックという時点で誰でも神の御前に「不敬虔」です。ペドロ・ロぺスのように殺人を犯していれば、尚のこと敬虔ではありません。三つ目は「献身」という言葉が使われることです。プロテスタントでは、牧師になろうと決心した聖徒が「献身者」と呼ばれます。牧師や牧師になろうと決心した人だけが、神に対する「献身者」なのでしょうか。とんでもないことです。聖徒であれば誰でも根本から神に対して献身すべき存在です。何故なら、神に献身するのが聖徒という存在だからです。パウロは全ての聖徒たちにこう言っています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」(ローマ12:1)ですから、牧師や牧師になろうとする人だけを「献身した者」と呼ぶのは正しくなく、反パウロ的です。もし彼らだけを「献身者」と呼ぶならば、一般の聖徒たちは神に献身しなくても構わないという意識が生じかねません。しかし、全ての聖徒はそれぞれ自分の召された領域で神に献身する義務があるのです。四つ目は、エルサレムが「聖都」と今でも言われていることです。エルサレムは旧約時代であれば確かに「聖都」でした。何故なら、昔のエルサレムには神殿があり、契約の箱もあり、そこが神の住まわれる地だったからです。しかし今やキリストの聖なる血が天地にある万物を父なる神と和解させたので(コロサイ1:20)、もはや場所における聖俗の区別は撤廃されています。それゆえ、今でもまだエルサレムこそが最も聖なる場所であるかのように「聖都」と呼ぶのは正しくありません。もし今でも「聖都」があると言うのであれば、それはキリスト者のことです。何故なら、今やキリスト者こそ神が住まわれる聖なる神殿だからです。神が住みそこで歩まれる場所こそ「聖都」と呼ばれるべきなのです。