週報:【正しい信仰と悪者を褒めること】(2023/01/29)


「おしえを捨てる者は悪者をほめる。」(箴言28:4)と聖書は教えています。聖書の御言葉はどれも重要ですが、これはかなり重要な御言葉の一つです。これは普遍的な内容ですから、いつの時代でも、どの民族においても、通用することです。この御言葉で言われている通り、「おしえ」すなわち聖書の正しい教義を「捨て」て蔑ろにする者は、愚かにも「悪者をほめる」ので悪者に良い言葉を向けます。そのような者は心の奥底で神と聖書など別にどうでもいいと思っているからこそ、神と聖書が批判している「悪者」を忌避したり嫌悪したりしないのです。ですから、悪者を褒めているかどうかという点は、その人が正しい信仰を持っているかどうか判断する指標となります。すなわち、正しい信仰者であれば悪者を非難しますが、不敬虔な名ばかりの信仰者は悪者を褒めて持ち上げます。これのよい例はドイツの大詩人ゲーテです。ゲーテは自分がプロテスタント教徒であるとハッキリ言っています。ところが、この詩人はカトリックという悪者を称賛・首肯しており、ほとんど非難していません。例えば、ゲーテは宗教改革時代の有名なカトリック修道士であるネリを「偉大な人物」などと言って称賛したり、贖宥状という馬鹿げた汚物を売ることでルターによる宗教改革の引き金となった人物である教皇レオ10世も何ら否定しておらず、寧ろその芸術の保護者としての側面を挙げて好意的に語っているほどです。またゲーテはカトリックの悪をも非難していません。例えば、ゲーテはカトリックにおけるミサおよび化体説、聖人崇拝、教皇主義、諸々の迷信深い儀式や行為といった既に宗教改革たちが論難し切った数々の過ちを何も悪く言っておらず、それどころかこれらを認めているかのように感じさせることさえ言っているほどです。こんな話があります。ゲーテがイタリアのカトリック教徒と船に乗っている際、大嵐により船内の人々は大パニックとなりましたが、ゲーテは慌てているカトリック教徒たちに「慈悲深いマリア様がキリストに執り成して下さるよう君たちは祈るべきじゃないか。」などと言ったのです。これは事実上、カトリックのマリア崇拝を容認しているのです。御覧ください、このゲーテは正しい教えを捨てており悪者に味方しているのであって、ただ自分がプロテスタント教徒だと思い込んでいるに過ぎなかったのです。彼がまともな信仰を持つプロテスタント教徒だったとは言えません。正しい信仰を持っていない、つまり正しい信仰を捨てていたからこそ、カトリックという悪者を褒めることができたのです。実際、ゲーテは正しいプロテスタントの信仰を有していませんでした。まず彼は創世記の内容に否定的ですが、これだけでも既にプロテスタントとして失格です。またゲーテは「神々」が私の歩みを良いように導いて下さるだろうとか、「運命の女神」が自分に微笑みかけてくれるように、などと平気で言っています。まともなプロテスタント教徒が、このような異教的な言葉を自分に関わる事柄として述べるということは全く考えられない話です。何故なら、まともなプロテスタント教徒は「神々」や「運命の女神」といった偽りの神々が存在しないことを聖書からよく知っているからです。神と聖書のことなど本当は信じていないからこそ、何も恐れずこんなことを大胆に言えるわけです。このため、恥ずかしがることなく悪者を褒めることもできたのです。イスラム教やユダヤ教をはじめ他宗教に好意的・首肯的な発言をする今の教会も、「おしえを捨てる者は悪者をほめる」のですから、かなりまずい状態にあります。今の教会に異教を厳しく断罪した宗教改革者たちの信仰的な精神は見られません。このため教会は神から祝福されず、低調になったり衰退したりしているわけなのです。