週報:【聖書の食物規範に日本人が合致していること】(2023/02/19)


キリストが流された聖なる血により万物は父なる神と和解されましたから(コロサイ1:19~20)、もう食物における聖俗の区別は撤廃されています。ですから、今や私たちはどのような食べ物でも食べてよいことになりました。ペテロが汚れた動物を食べようとしなかったことからも分かる通り(使徒の働き11:8)、かつての時代において汚れていると定められていた動物は食べるべきではありませんでした。イカ、タコ、海老、豚といった動物がそうです。しかし、今となってはそのような動物を食べたとしても罪となりません。寧ろ、今でも昔と同様に動物の聖俗規定を遵守することこそ罪です。今のユダヤ教徒たちはこのような罪に陥ったままでいます。日本人にキリスト者は多くいませんが、それにもかかわらず日本人は食物の面でキリスト者とほとんど変わるところがありません。キリスト者と同様に、日本人はユダヤ教徒のように豚を食べなかったり、ヒンドゥー教徒のように牛を禁じたり、仏教徒のようにそもそも動物の殺生を忌避する、ということが全くありません。これは大変に喜ばしいことです。日本人はキリスト者になっても、ノンクリスチャンだった頃と食事に関してほとんど変わることがないはずです。ですから、日本人は食物のせいで信仰を持つ躓きが起こることも恐らくないでしょう。ある食物を絶対的に禁忌する宗教の信者や民族や個人の場合、食物のことが信仰を持つ躓きになりかねません。例えば、ヒンドゥー教徒の場合、キリスト教が牛の屠殺と喫食を禁じないというので、信仰を持とうとしても躓きが起こりかねません。このように食物の面で日本人とキリスト者はほとんど変わる点を持ちませんが、よく考えると、驚くべきことに寧ろ日本人のほうが現代西洋のキリスト者よりも食物の面で聖書的であることに気付かされます。それは何故なのでしょうか。その理由は、日本人が動物の舌であれ腸であれ胃であれ肝臓であれ心臓であれ精巣(白子)であれ、ほとんど全ての部位を食べるのだからです。これはパウロが語った次の御言葉に全く適合しています。「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。」(Ⅰテモテ4:4)一方、現代西洋のキリスト者はその大半が教会でしっかり聖書を教えられていませんから、今引用したパウロの御言葉が頭に記憶されていないか、たとえ記憶されていてもその記憶が頭の中で眠らされています。このため現代西洋のキリスト者は、日本人がパウロの御言葉に合致したこと、すなわち動物のどの部分であっても感謝して食べているのを見て、「日本人はどうして内臓なんて平気で食べているのか…。気持ち悪くないのか。」などと思って不気味がるわけです。「捨てるべき物は何一つありません。」とは当然ながら内臓も例外ではありません。この通り内臓でさえ感謝しつつ食べる日本人のほうが、食物の面で欧米のキリスト者よりも聖書的であるというのは、大変注目すべきことです。欧米のキリスト者のほうが本当であれば何でも感謝しつつ食べているべきなのですから。これは入墨でも同じです。聖書が禁じている入墨を、日本人は嫌悪しますが、欧米のキリスト者は抵抗なくするからです。現代の欧米では教会が入墨について教えていないので、入墨が悪であるということを知らない人ばかりなのです。本来であれば彼らのほうが入墨を嫌悪しているべきなのです。この入墨の面でも、やはり日本人のほうが現代西洋のキリスト者よりも聖書的です。このようである日本人の多くがこれから早くキリスト者になってほしいものです。