週報:【血と命と意識】(2023/04/09)


コバエを叩き潰すと私たち人間と同じ赤い血が出て来ます。昆虫にも血が与えられているわけです。魚も昆虫と同様に血を持っています。魚を解体する場所では魚から出た多くの血が見られます。地上にいる猛獣や家畜が血を持つことは説明しなくてもいいでしょう。一方、木や花や果実や草といった植物は血を持っていません。果汁や樹液を植物の血と見ることはできません。また太陽などの恒星や地球などの惑星や月などの衛生といった天体も、やはり血を持ちません。星にある海や溶岩といった液状の物質を、星にとっての血だと見做すことは難しいでしょう。このようなことを考えると、「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」(レビ記17:14)という神の御言葉が豊かに理解できます。この御言葉が示す通り、血を持つ被造物こそが「いのち」であり生物なのです。血を持たなければ、その被造物は命のある生物だと言えません。先に挙げた植物や星は血を持っていないので、厳密に言えば命また生物ではありません。植物や星は、命に似た機械のような被造物です。何故なら、もし植物や星が生命だとすれば、それらには血が与えられていたはずだからです。鉱物や山や空気や光でも同様のことが言えます。「血」があるかどうかが生命を区別する基準なのです。この血を持つ命ある被造物にだけ、主体性の伴う意識を生じさせる霊が与えられています。私たち人間にこのような霊が与えられていることは、わざわざ説明するまでもないことです。私たちに与えられている霊は「人の子らの霊」(伝道者の書3:21)です。動物にも霊は与えられていますが、それは「獣の霊」(前同)であり、人間の霊とは異なる霊です。ですから、獣たちも主体的な意識を多かれ少なかれ持っています。そうでなければコバエであれ魚であれ犬であれ、どうして自分自身で自分の身体を好きなように動かすことが出来ているのでしょうか。獣の行動を見るならば、獣にも意識を生じさせる霊が与えられていることは明らかです。しかしそれは人間に与えられているような神の似像としての霊ではなく、あくまでも獣の霊ですから、人間が持つほどはっきりした自我は持っていないはずです。このように、血と命と意識(=霊=自我)は切っても切り離せない関係を持つことが分かります。血を持たなければ命と意識もなく、命がなければ血と意識もなく、意識を持たなければ血と命もありません。この世界では、これら3つの要素により生命体が成り立っています。しかし、神と御使いについては話が別です。神は命そのものであられ、御使いたちも神に造られた命である存在です。しかし、神は被造物から超越しておられるので血を持っておらず、御使いたちも霊としての生命体ですから血という物質を持ちません。私がここで書いたのは、あくまでもこの地上世界に関する命のことです。