週報:【虚しく無意味な「慰霊」という祭式について】(2023/05/07)


世界中で一般的に行なわれている「慰霊」という祭式があります。日本人もよくこの祭式を行なっており、特に戦没者や災害で亡くなった人を慰霊することが目立ちます。沖縄でも「慰霊の日」である6月23日に<沖縄全戦没者追悼式>が行なわれており、太平洋戦争・沖縄戦で犠牲となった20万人の戦没者が慰霊されます。この「慰霊」とは、つまり死んだ人の霊を慰めて安らがせることです。これは無宗教の人であっても行ないますが、非常に宗教性の強い行為です。死者の慰霊をする人々は、当然ながら死んだ人の霊を慰めることにより、自分たちも同時に平安を得ようとします。そうでなければ何のために慰霊をするのでしょうか。もし死者の霊に益とならず、自分たちの益にもならなければ、慰霊をする意義を見出せなかったはずです。まさか何の意義も感じられないのに、あえて慰霊を行なうほど愚かであるというのでもないでしょう。確かに人々は慰霊により、死者を慰め自分たちも安心しようとします。しかし、確かなことを言えば、このような祭式は全く無意味であり、死者に対して何の効力も及ぼされません。何故なら、人は死んだ時点で既に全てが確定するのであり、もうそれ以降は僅かであっても状態の変化が起きないからです。つまり、死んだ時にキリストを信じていた人は天国で永遠の至福に与かる状態から何も変化せず、信じていなかった人は地獄で永遠に苦しむ状態から全く変わることがありません。地上の人間が慰霊また祈りを死者に対し行なったからといって、神がその死者に対し働きかけて下さるということもありません。もしそういうことがあれば、聖書は死者に対する慰霊であれ祈りであれ行なうよう命じていたでしょう。しかし、死んだ者は死後に良くも悪くもなりませんから、聖書は死者に対する慰霊また祈りを命じていないわけです。この点で、死者のために祈ったりミサを行なったりするカトリックは愚かなのです。彼らは、もう死んだ者は何も変化しないにもかかわらず、死んだ者が煉獄で受ける苦しみを軽減させようと、死者に対して祈りであれミサであれ働きかけるのです。こういうわけですから、人々が行なっている慰霊は全く無意味な行為です。人々は死者の霊を慰めているのでなく、自分たちの霊を慰めているだけです。しかも、その慰めは虚しいものです。何故なら、それは慰霊の対象である死者が慰められていないにもかかわらず、無知のため慰められたと思い込んでしまうことに基づく幻想的な慰めだからです。人々はこのように無意味な慰霊をしている暇があれば、主イエスとその御救いを求めて救われるべきなのです。慰められもしない死者に対し無意味な祭式を行なうぐらいであれば、救い主を信じて救われたほうがどれだけいいでしょうか。慰霊をされている当の死者たちも、地獄の中で、自分たちに慰霊をしている地上の人々が救われてほしいと願っていることでしょう。これは間違いないことです。何故なら、福音書に出てくる金持ちは、地獄の苦しみの中で、まだ地上で生きている自分の兄弟まで地獄に来ないよう願ったからです。この金持ちは地獄でアブラハムにこう言ったのです。「私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」(ルカ16:28)