週報:【キリストの奇跡について】(2023/07/02)


ヨハネはキリストが行なわれた奇跡についてこう書いています。「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」(ヨハネ21:25)主は実に多くの奇跡を行なわれました。これは主が、人として来られた大いなる神であり、全能の御力を持っておられたからです。もし主が私たちと同じ単なる造られた人間に過ぎなければ、奇跡は全く行なうことができなかったでしょう。ヨハネはこの奇跡が実際にどれぐらい行なわれたか具体的な数を示していません。ヨハネはただ大まかに「たくさん」行なわれたと言っているだけです。私たちが主の奇跡をどれぐらい行なわれたか、その数を具体的に推測するのは果たして問題ないでしょうか。これはあまり望ましくないと思えます。ヨハネはただ大まかに数多く行なわれたとだけ言っているわけですから、私たちも具体的な数を探ろうとせず、大まかに「たくさん」だったと弁えていればいいでしょう。神は、このキリストの奇跡を全て聖書で示されず、ただその一部を示されるに留めました。ヨハネはこう言っています。「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。」(ヨハネ20:30)これは聖書の内容量があまりにも多くなり過ぎないためだったと考えられます。もし主の奇跡が全て聖書で書かれていたとすれば、ヨハネも言った通り、本当に「世界も、書かれた書物を入れることができ」ないだろうからです。しかし、キリストの奇跡がどのようであったか知れるほどの量は、福音書の中でしっかりと書き記されています。つまり、キリストの奇跡が福音書記者たちを通じて書かれる際、神は量的な適切さを考慮され、その量が多過ぎと少な過ぎのどちらにもならないようにされたのです。キリストがこのように無数の奇跡を行なわれたのは、御自分が本当に神の御子である救い主だと御示しになるための「証拠としての奇跡」でした。神が本当に人としてこの地上に来られたのであれば、そのような聖なる存在は、絶対に数多くの奇跡を行なうことができます。誰がこのことを疑うでしょうか。それというのも、神とは全能の存在だからです。神はエレミヤにこう言われました。「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、主である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」(エレミヤ32:27)このため、キリストは御自身が人として来られた全能の神また救い主であることを示すため、証拠として多くの奇跡を行なわれたのです。このような無数の奇跡が実際に行なわれたのですから、キリストこそ人間を救うために来られた神の御子であられることは明らかです。それゆえ、人はこの御方を大いなる救い主として信じるべきです。そうすれば主イエスを信じる信仰のゆえに救われます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き16:31)と聖書に書かれている通りです。このような奇跡をキリストが御自分の証拠として数多く行なわれたにもかかわらず、このキリストを信じないのであれば、地獄における神の御怒りと刑罰を避けることは絶対にできません。不信仰な人に神は巨大な憤りと恐るべき裁きを下されます。