週報:【「罪滅ぼし」はキリストにある】(2023/07/16)


日本人はよく「罪滅ぼし」ということを行ないます。ニュースなどでよく見かけるのは、過去に問題を起こした人が自分の犯した罪を償うために何かを行なうことです。懲役刑に服したある暴力団だった人は、自分が過去に犯した罪の罪滅ぼしとして、ウクライナ戦争に義勇兵として参加しました。この人が兵士として志願した際、ウクライナ軍は最初、採用することに難色を示しました。しかし、この日本人が全身の刺青を見せると、ウクライナ人は心を動かし、採用されるに至ったということです。この「罪滅ぼし」は一見すると道徳的で立派な印象かもしれませんが、しかし神の御前では全く何の意味もない行ないでしかありません。たとえ人がどれだけ努力して罪滅ぼしだと自分の思っている行ないをしても、神の御前で罪が除き去られることはありません。「罪滅ぼし」とはすなわち行為義認です。これを行なう人は、自分自身で自分の罪を清めようとしています。しかし、神は行為による罪の清めを決して認められません。何故なら、もし人間が自分の行為で自分を罪から清められたとすれば、人間は「私は自分で自分を清めた。」などと思って誇れるようになるからです。人間という罪深く矮小で虫けらも等しい被造物が決してこのような誇りを持って高ぶらないため、神は人間の行為による罪滅ぼしが成立しないように定められました。ですから、パウロは人間の救いについてこう言ったのです。「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:9)それゆえ、「罪滅ぼし」により自分の犯した罪が完全にであれ幾らかであれ除去・相殺されると考えるのは、無知に基づく思い違いであることが分かります。確かなところ、真の「罪滅ぼし」はイエス・キリストにだけあります。何故なら、主キリストは私たちの罪を全て滅ぼすため身代わりとして死なれたのだからです。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(イザヤ53:4)また「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」(同53:5)と書かれている通りです。このキリストが流された聖なる血により、私たちの犯した罪は取り除かれ清められるのです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)と聖書は言っています。自分の行ないによる償いは神の御前で意味を持ちませんから、このキリストに罪からの清めと解放を求めるべきです。全ての人は神の御前で罪人ですから、全ての人がキリストを求めるべきです。そうすれば神がキリストのゆえに全き罪の清めを与え義と認めて下さいます。