週報:【社会的に潔白な人も神の御前では邪悪な罪人】(2023/07/23)


ニュースを見ていると、よく被害を受けた人が、加害者に対し「同じ人間としてこのようなことが出来るとは信じられない。」などと言っているのは珍しくありません。被害を受けた不快感や憎しみや怒りの現われとして、このように言うのは当然かもしれません。また加害者も、悪い行ないをしたのですから、責められても文句は言えないでしょう。私たちもその多くが、事件の被害者となれば、このような発言をする可能性はかなりあります。確かに被害者がこのように言うのは自然だったとしても、おかしいのは被害者が自分を潔白で罪深い存在だと見做していないようである点にあります。何故なら、被害者は「私も罪深い存在なのですが」などと前置きを入れたり、「私も魔が差していたら悪に手を出さないとは確言できません。」などと言っていないからです。確かなところ、被害者も神の御前では加害者と同じく罪深い存在です。神の御前に罪深く忌まわしい不完全な悪者であるという点で、被害者は加害者と全く一緒なのです。というのも神の御前で「すべての人は、罪を犯した」(ローマ3:23)からです。ですから、加害者を軽蔑しているかのような被害者も、その加害者と同じく地獄で永遠に裁かれます。その時、被害者は自分も加害者と何も変わらない罪人だったことに気付くのです。しかも、その被害者が地獄で加害者よりも激しい度合いの刑罰を受ける可能性もあり得ることです。何故なら、神は人の心と人目に付かない所での言動をも、刑罰の勘定に含められるからです。社会における刑罰の勘定と御前における刑罰の勘定は異なります。社会においては公的に犯された悪だけが勘定されるのです。被害者が陰では加害者よりも邪悪な存在だったという場合も必ずあるはずです。これらの事柄は、キリストの御言葉からよく分かります。主は、ユダヤ人たちがガリラヤ人に行なわれたピラトの極悪を報告した際、もしユダヤ人たちもそのままでいれば滅んで地獄に行くであろうと言われたのです。福音書にこう書かれています。「ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。…」」(ルカ13:1~3)どの被害者も神の御前で悔い改めて主イエスを信じなければ、加害者と同じく悪人として地獄の裁きを受けねばなりません。