週報:【偶像を滅ぼす神の剣】(2023/10/08)


使徒行伝17:16で書かれている通り、アテネにいたパウロは「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じ」ました。これはアテネ人たちが、人間の制作物に過ぎない像を神と見做し崇めていたからです。古代ギリシャでは、町だけでなく、個人宅の庭にも偶像が置かれていました。パウロのような信仰者にとって、このような偶像は決して認めることができませんでした。パウロの時代では各地にこのような偶像が満ちていました。そのような偶像に聖徒たちが惑わされて罪を犯してはなりません。それゆえ、ヨハネはⅠヨハネ5:21で聖徒たちに「偶像を警戒しなさい。」と命じたのです。今の時代でも、ここ日本などの国において、昔と変わらず偶像が多く見られます。こういった偶像は忌まわしい邪悪な汚物です。しかし、それが忌まわしいとは分かっていても、偶像は強力な雰囲気を自然と漂わせているのが感じられます。実にこの強力な偶像の雰囲気こそが罠なのです。多くの人々は、この罠に陥ってしまうので、偶像を何か凄い存在であるかのように思って拝むわけです。私たちの場合はヨハネの御言葉を心に留め、決してこのような罠に陥らないよういつも警戒する必要があります。確かにこの偶像は邪悪で忌まわしく、それは罪そのものであり、無益かつ無用なガラクタに過ぎません。しかも、それは拝む人々に神からの呪いを齎します。しかし、だからといって教会がこの偶像を勝手に滅ぼすことはできません。何故なら、偶像を勝手に破壊したり除去するというのは、明らかに合法的なプロセスが欠けているからです。使徒たちもそんなことは決してしませんでした。たとえ隣人が偶像という邪悪な汚物を所有していたとしても、それを損ねるのは不法な行為となります。もしそのようなことをすれば、私たちは「盗んではならない。」という戒めに違反してしまいます。この戒めでは、盗むという行為だけでなく隣人の所有物を全般的に保護することが求められているからです。聖徒であれば、パウロのように偶像を不快だと感じるはずです。偶像が滅ぼされるならばどれだけいいでしょうか。幸いなことに、教会はこの偶像を滅ぼすことができます。それはキリストの福音を宣べ伝え、人々が救われるようにすることです。もし偶像崇拝者だった人がキリストを信じて救われるならば、その人は偶像崇拝の罪を悔い改めるでしょうから、かつて拝んでいた偶像を自ら進んで滅ぼすことでしょう。偶像の所有者がその偶像を自分で捨てるとしても、それはその人の自由なはずです。ですから、このようにして偶像が滅ぶようにするならば合法的であり、神にも喜ばれます。このようにして偶像が滅ぼされるのを教会は願い求めて行かねばなりません。福音を宣べ伝えれば宣べ伝えるほど、救われる人が増えれば増えるほど、それだけ偶像も滅ぼされる度合いが増し加わることでしょう。福音とは偶像を滅ぼす神の剣なのです。