週報:【不信仰と災い】(2023/11/19)


静岡がこれから大地震で罰されるのは間違いありません。何故なら、聖書は「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。」(箴言26:2)と教えているからです。もし意味もなく災いが下されるならば、そのような災いを下す神は不条理・不正であることになります。しかし、神は真実な正しい御方ですから、正当な理由や根拠のない災いは下されません。静岡は大きな罰を受けるべき「いわれ」があります。それは静岡の人々が、御子イエス・キリストとその御救いを無視し決して受け入れようとしないからです。聖なる御子の福音を不信仰により無視し続けることで、真理を長らく侮辱するような人々が、神から災いを受けないままでいるというのは全く考えられないことです。窃盗罪を犯した人が法により処罰されるべきだとすれば、福音を無視し続ける人々はその1億倍も処罰されるに値します。主は「信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:16)と言われました。ですから、いつまで経っても不信仰を続ける静岡の人々は罪に定められて罰されるのです。これまでの伝道から経験的に分かることですが、静岡は聖なる福音を信じるつもりがないようです。彼らは聖書の真理を自分たちと無関係な事柄として取り扱っています。彼らにとって大事なのは、生活の幸い、利益、成功、快楽、健康といった事柄です。自分たちの無視しているその神がこれらを御恵みとして与えて下さるというのに、その神を無視するというのは不信仰もいい所です。この通り、静岡は実に無知で傲慢で邪悪であると言わねばなりません。つまり、静岡の人々は主の御前で非常に罪深いことが分かります。ですから、大きな災いで罰されたとしても自業自得なのです。トラクトに書かれてある福音の御言葉を知れば、信じることにより静岡の人々も救われることができます。使徒より後の時代に神から最も用いられたキリスト者であるアウグスティヌスも、御言葉の文章を読むことで信仰により救われました。ところが静岡の人々は全く信じようとしない不信仰を続けているのです。この地の住民の不信仰はどれだけ大きいことでしょうか。私はこのような不信仰に憤りを感じます。キリストと使徒たちも信じようとしない不信仰な人々に対し公然と憤りました。ルターも、福音を聞いたにもかかわらず反発したユダヤ人に対し激怒しました。ですから、いつも主にあって福音を宣べ伝えている私が憤るのは、別に何もおかしいことではありません。