週報:【宣教と商売の原理】(2023/12/10)


古代社会は商売をあまり良く思っていませんでしたが、聖書は商売を悪だと教えていません。何故なら、聖書には利益に関する多くの教えが書かれているからです。例えば、箴言22:1では「愛顧は銀や金にまさる。」と書かれています。これは信用や評判を稼ぐことよりも重視すべきであるということです。何故なら、人々から嫌われて「愛顧」を失うならば、三菱車のように売り上げが落ち、「銀や金」つまり利益を得られない状態に陥るからです。この商売では、優れた知恵や多くの努力があれば、大きな利益を出すこともそれほど難しくありません。というのも、商売は人間の欲望および必要と密接に関係しているからです。餓死したり不健康となるため食欲を抑えるのは非常に難しいのであり、食べるというのであれば不味くなかったり不健康でない食物を多くの人は買いたいと思うものです。必要不可欠な物にしても、それが無ければ生活に困るわけですから、どうしても店また業者において買わざるを得ません。ですから、アップルやマクドナルドをはじめ人間の欲望と必要から生じる求めを上手く自分たちに向けさせられる企業は、多くの利益を得られるわけです。ところが、教会の福音伝道の場合は話が違います。人がキリストの御救いを信じるのは、欲望や努力と関わりがないからです。人が信じて救われるのは、神がその憐れみによりキリスト信仰を与えて下さるからです。こう書かれている通りです。「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:16)このため、商売とは異なり、人がどれだけ知恵を働かせようとも、どれだけ努力しようとも、神が憐れんで救われることのない人は絶対に救われません。これはイスカリオテのユダを考えればよく分かるでしょう。滅びるよう定められていたユダに何をしたところで決して救われるものではありません。誰も神の定めを覆すことはできないからです。キリストが証拠としての奇跡と共に伝道をされても、救われない人は決して救われませんでした。使徒たちも奇跡を行ないつつ伝道をしましたが、やはり救われない人は救われませんでした。キリストと使徒のように伝道できる人はいませんが、キリストと使徒が伝道しても駄目な人は駄目だったのです。ですから、福音伝道の原理は商売の原理と異なることが分かります。前者は神が救われるよう定められた人を御自分に引き寄せるのですが、後者は人間が知恵や努力により人間から利益を獲得するのです。それゆえ、重要なのは会堂とか駐車場などといった外的な要素ではありません。福音書から分かる通り、神に定められている人は屋根を壊してでもキリストを求めることでしょう。神は福音により人を救われるのですから、商売的に考えることをせず、より多くの人々に福音を宣べ伝えることこそ最善なやり方です。主はそのようにせよと言われたのです。