週報:【救いによる本質の回復】(2024/01/28)


神は創造の6日目に人間を土から創造される際、こう言われました。「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」(創世記1:26)それゆえ、聖書は人間の創造についてこう書いています。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)このことから分かる通り、人間が創造された目的とその存在意義は「神に似ることで神とその栄光を現わすこと」です。聖徒とは、このような人間の本質がキリスト信仰によりそのうちに回復された存在です。ですから、パウロは救われて聖徒とされたコリント人たちに、「自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:20)と命じたわけです。人間が自分の身体において神とその栄光を現わすためには、神の聖なる律法を遵守することです。何故なら、律法には神の正義がまざまざと示されているからです。この律法の通りに歩むことで、人間は神に似た振る舞いをすることができます。しかし、コリント人たちは救われたにもかかわらず律法が命じる通りに歩んでおらず、そのため神の栄光を現していませんでした。だからこそ、パウロはコリント人たちが神の栄光に反する罪を止めるよう戒めたのです。人間が罪を犯せば神に似ることはできません。このように神の栄光を現わす存在となるには、まずキリストを信じて救われ、神に仕える新しい被造物へと変えられなければなりません。キリストにより救われなければ、いつまでもずっと神の御前で死んだままの状態だからです。そのような状態であれば、ずっと神の御前で役立たずの不要物でしかないのです。ですから、そのまま死ねば神の御心に適わない役立たずの汚物として永遠の火で焼かれるのです。神はそのように地獄で罪人たちを罰されます。それゆえ、是非とも人々は救われるため悔い改めてキリストを信じるべきなのです。このような尊い御救いが、神の御恵みによりこの静岡で豊かに宣べ伝えられています。ところが静岡は無反応のまま悔い改める予兆さえ見せようとしません。静岡がこうであれば、そこにいる人々は死んでから間違いなく地獄で永遠の裁きを受けるのです。また静岡は不信仰に対する神罰として、これから南海トラフ巨大地震による悲惨が降りかかるでしょう。つまり、信じない人々は死んでからだけでなく、今の生涯においても不信仰に対する報いを受けるのです。キリストの聖なる福音を無視し続けておきながら、ただで済むはずは絶対にありません。静岡の人々は、神に立ち返らないという罪深い道を歩み続けています。これでは神から悲惨な報いを受けたとしても自業自得なのです。彼らを憎むわけではありませんが、彼らの不信仰が罰されるということは言っておかねばならないのです。彼らも信じて救われていたら、どれだけ良かったことでしょうか。