週報:【感覚による罪の認識】(2024/02/04)


日本のコンビニやスーパーなどで売られている食品に、「罪深い美味さ」などと書かれている商品が見られます。他にも言い方のバリエーションは幾つもありますが、あまりにも美味しいので罪深いと言っている点ではどれも共通しています。日本人は、極度の美味しさを罪深いとするのです。これを考察するならば、現代日本人の民族性と心理が多かれ少なかれ分かりそうです。まずこのように言うのが法律に違反する意味での罪深さでないのは明らかです。あまりの美味しさを禁じる法律など日本に存在していないからです。もしこういった法律があれば、日本にある多くの店や食品が販売禁止とされてしまうでしょう。ですから、日本人が美味しさを罪深いとするのは感覚的なことです。では、どうして今の日本人は感覚的に美味しさを罪と関連付けるのでしょうか。その理由は、日本人の精神性が衰えたからであると考えられます。ここ最近の日本人は車をあまり欲しがらなくなり、夢や大志もかつてほどは抱かなくなり、100円ショップなどの安物でも十分とするようになりました。これはバブル崩壊を通して日本人の精神が退廃的になった影響なのでしょう。そのような精神からすれば、あまりにも凄い美味しさは身に余るような気がするので「罪深い」などと言ってしまうのかもしれません。今の日本人が王のような精神を持っていれば、「罪な美味さ」などとは言わなかったはずです。しかし、確かなところ美味しさが罪であるということは決してありません。何故なら、美味しさとは神の賜物だからです。美味さとは物質を通して与えられた神の慈しみです。このような御恵みである美味さを罪と関連付けることこそ正に罪深いと言わねばなりません。もし美味しさが罪深いものだとすれば、その美味しさを造られた神ほど罪深い存在はいないことになりますが、そもそも美味しさとは神の良い御恵みなのです。ですから、日本人が美味しいから罪深いと言うのは全く間違っています。寧ろ、人はその美味しさを通して神を賛美すべきなのです。この通り、日本人は罪でないものを罪であるとし、嫉妬や占いなど罪であるものが罪であることを知りません。これは日本人が聖なる律法を全く知らないからです。パウロが言ったように、「罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。」(ローマ5:13)このように日本人が罪について無知であれば、それだけ悔い改めるのも難しくなります。ですから、教会だけでなく一般社会に対しても律法が教えられる重要性は大きいのです。キリストは、律法に違反するという罪のために死んで贖いとなられたからです。