週報:【福音に対する無反応】(2024/02/25)


福音の御言葉が告げ知らされるならば、それは神が福音を告げ知らせておられるのです。福音の本体であられるイエス・キリストは、万物の支配者また所有者であられ、この御方のために万物は造られました。「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:16)と書かれている通りです。このようなキリストにおける福音が告げ知らされるならば、神が働きかけられます。キリストは雀の一羽でさえも神が許されなければ地面に落ちない、と言われました。であれば、福音の伝達には尚のこと神が働きかけられるのです。しかし、日本人は福音を知っても、全く反応を示すことがないままでいます。日本人がこのようであるのは、神から霊的な御恵みを受けていないからです。モーセは古代イスラエル人に対しこう言いました。「しかし、ヤハウェは今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。」(申命記29:4)これと全く同じことが日本人にも言えるのです。今の日本人もモーセ時代の古代イスラエル人と同様、「悟る心と、見る目と、聞く耳を」受けていませんから、福音の霊的な言葉を知っても全く無反応なままでいます。それどころか日本人にとって福音は愚かにさえ感じられるでしょう。パウロがこう言った通りです。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。」(Ⅰコリント2:14)福音は聖書が教えるように「宣教のことばの愚かさ」(Ⅰコリント1:21)ですから、霊的な御恵みを受けていない日本人が愚かに感じたとしても当然のことです。更に日本人が福音に無反応である理由はもう一つあります。それは日本人が仏像というガラクタを拝んでいることです。次の御言葉が示す通り、人はその拝む対象と同じ存在となります。「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」(詩篇115篇)仏像に何を聞かせても全く無反応であるのと同じで、仏像を拝む日本人も福音の御言葉に対して無反応なのです。しかし日本人の無反応に対し神は決して無反応なままでおられません。何故なら、福音とは神の愛される御子に関する聖なることだからです。もし日本人の無反応に神が無反応なままでおられるならば、神は御子のことを重視しておられないことになるでしょう。しかし、神は御子を愛しておられるのですから、無反応な日本人の不信仰に必ず復讐されるでしょう。ここ静岡について言えば、もうかなり福音が宣べ伝えられましたから、南海トラフ地震が復讐の罰となるはずです。