週報:【川勝知事の辞職について】(2024/04/14)


川勝平太知事が、6月をもって知事職を退くこととなったのは、かなり大きなニュースでした。知事は京都育ちですから、私たち静岡人と少し異なる印象が前からありました。静岡人であれば川上陽子外務大臣のように、もう少し大人しい印象だったことでしょう。川勝知事が知事職から退くというのは、つまり神が知事をその知事職から引き下ろされるということです。何故なら、パウロが言うように「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたもの」(ローマ13:1)だからです。全て権威者は神により立てられ、その権威が取り去られるのも神によります。ですから、もう静岡県の上に川勝知事が置かれているのは神の御心でなくなったわけです。もしまだ御心であれば、川勝知事が6月に辞職することも無かったでしょう。私たちはこの度の辞職ニュースにおいても、神の働きかけをその背景に見なければなりません。そうしてこそ「霊の人」であることができます。使徒たちもそういった霊的な人でした。この川勝知事は差別発言がその要因となり辞職することとなりましたから、言葉が自らへの災いになりました。安藤百福や松下幸之助も社員に対し日々訓示をしていましたから、訓示自体は悪いとは思えませんが、しかし言葉には慎重さが求められるべきだったでしょう。フランシス・ベーコンは「随想集」の中で、権威者たちがこれまで言葉により自らに災いを招いて来たことを思い起こさせています。カエサルもスラも、ちょっとした言葉により大きな災いを招きました。ですからベーコンは自分の発する言葉に注意せよと教えていますが、それはもっともなことです。聖書も言葉が私たちの人生を動かすと教えています。ソロモンは箴言でこう言いました。「人の生と死は舌によって支配される。どちらかを愛して人はその実を食べる。」またソロモンはこうも言っています。「人はその口の結ぶ実によって満たされる。」これらの御言葉から、舌の発する言葉がどれだけ重大な意味を持つのか悟れない人はいないでしょう。次の静岡県知事も、やはり神が御心のままに立てられます。しかし、この静岡の人々は、祝福の与え主であられる父なる神とその御子イエス・キリストを無視し続けています。この静岡には、もうどれだけキリストの福音が宣べ伝えられたことでしょうか。このような静岡県に神が祝福の意味を持つ知事を新しく与えて下さるかどうかは分かりません。何故なら、御子を受け入れない人々は神に喜ばれることができないからです。御子を信じる人こそ神から真に祝福されることができます。ですから、次の知事があまり静岡県にとり良くなかったとしても、静岡の人々が文句を言うことはできないでしょう。