週報:【キリストの贖いと律法から知られる罪】(2024/04/28)


「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」のですから、<罪>が具体的に何なのかしっかりと知らされるべきなのです。ヨハネが言う通り、「罪とは律法に逆らうこと」です。ですから、パウロは「罪は律法によって知られる」また「律法のないところには違反もありません」と言ったわけです。この聖なる律法により神の御前で何が罪なのかはっきり判定されるのです。人間の精神は堕落しており善に無能力となっていますから、律法で示されている神の聖なる倫理を弁えることができません。それゆえ、聖書は「善を行なう者はいない」と言っているのです。もし律法から罪を正確に教えられなければ、無知のため悲惨となりかねません。すなわち、罪でないことを罪だと思って悔い改めたり、それとは逆に罪であることを罪と知らず悔い改めないでいたりしかねません。こうなれば神の御心に適うことは難しくなってしまいます。こういった悲惨の詳しい例を一つずつ示しましょう。まずは罪でないことを罪だと思って悔い改めるケースです。ある人が主イエスを信じて救われました。その救われた人は、それまでずっと続けてきた飲酒が罪深いと感じたので、悔い改めて飲酒をきっぱりと止めました。またその人は動物を殺して食べるのが残虐だと感じたので、動物の肉を食べることも罪悪だと感じて悔い改めました。ところが、この2つはどちらも律法で罪に定められておらず、味わったり楽しんだりしても良い事柄です。この人は律法を詳しく知らなかったので、罪でないことを自分勝手に罪に定めてしまったのでした。次は、罪であるのに罪だと知らず悔い改めないままでいるケースです。ある人が主イエスを信じて救われましたが、救われてからも以前から好んで行なっていた占いを続け、それだけでなく十字架の刺青も新しく腕に彫りました。この人は占いと刺青を罪であると思わなかったからです。しかし、律法はこの2つを明白に罪として定めています。「卜占をしてはならない」また「刺青をしてはならない」と律法で書かれている通りです。この人は律法からこの2つが罪だと教えられていなかったので、救われてからもそれを悔い改めることがなかったのです。言うまでもなく、この人はこの2つのことを悔い改めて止めるようにすべきでした。このような悲惨を避けるためには、どうしても律法から何が罪であるのか教えられなければなりません。教会は十戒だけでなく諸々の細かい律法についても教えるべきなのです。そうしてこそ何が罪なのかしっかり知られるのであり、悔い改めるべきことを悔い改め、悔い改める必要のないことでは自由な振る舞いができるのです。キリスト・イエスは、律法違反という罪のために十字架で贖いとなられました。無知のために罪とされる実際は罪でないことのために贖いとなられたのではありません。ここに罪が律法から教えられるべき大きな重要性があります。