【Ⅱサムエル記1:1~22】(2022/12/18)


 この巻の冒頭と前巻の末尾を見るならば、この2つの巻における繋がり具合がよく分かります。これは、前半と後半で一纏めにされるべき文書です。それゆえ、「サムエル記第一」「サムエル記第二」という名称が付けられているのは適切です。この巻も前巻と同じ記者が書いたのでしょう。『サムエル記』とあるのは、ただサムエルから任職された2人の王(サウルとダビデ)に関する記録という意味であって、サムエルがこれを書いたというのではありません。この巻では、ダビデがイスラエルの王となり、王として歩んでいる出来事を記しています。前の巻がサウルの書だとすれば、こちらはダビデの書だと言えます。この巻は全24章であるのに対し前の巻は全31章であり、後半のほうが分量的に短くなっています。このⅡサムエル書は、Ⅰサムエル書と同じで、預言書のような難解さはありません。この巻で私たちは、ダビデという実例を通して多くの霊的また道徳的な益が得られるでしょう。その益は大きな意味があります。ですから、この文書は私たちにとって重要です。

【1:1】
『サウルの死後、ダビデはアマレク人を打ち破って帰り、二日間、ツィケラグに滞在した。』
 『サウルの死後』という言葉により前巻からの続きが始まります。サウルが死んでから、アマレク人を滅ぼしたダビデは、ツィケラグの自宅へ帰り、そこで『二日間』滞在します。この2日間にダビデが何をしていたかはあまり重要だと言えません。長旅をして帰って来たばかりなのですから、休んだり、礼拝したり、報告したり、整えたり、義務を行なったり、とにかく為されるべきことをしていたのでしょう。

【1:2~4】
『三日目に、突然、ひとりの男がサウルの陣営からやって来た。その着物は裂け、頭には土をかぶっていた。彼は、ダビデのところに来ると、地にひれ伏して、礼をした。ダビデは言った。「どこから来たのか。」彼はダビデに言った。「イスラエルの陣営からのがれて来ました。」ダビデは彼に言った。「状況はどうか、話してくれ。」』
 ダビデがツィケラグへ来てから『三日目』になると、ペリシテ人から殺されず生き残ったサウルの部下が、ダビデのところに逃げて来ました。彼の『着物は裂け、頭には土をかぶっていた』のですが、これは凄まじい戦況の中から逃げて来たことを示しているのかもしれません。彼が戦争で感じた大きな悲しみを現わすため、自分でこのようにした可能性もあります。ダビデも着物を裂いて自分の悲しみを現わしました(Ⅱサムエル1:11)。ダニエルも悲しみを現わすため自分で頭に灰をかけています(ダニエル9:3)。ユダヤ人はこのように自分で自分の感情を表出させる民族でした。しかし、この男がこのように自分でしたのかどうかは分かりません。ただ逃げるため激しく動いたからこうなっただけである可能性もあります。いずれにせよ、彼の状態からは戦いの凄まじさがよく分かりました。この男は『ダビデのところに来ると、地にひれ伏して、礼をした』のですが、これはダビデがこれから王になると知っていたからだと考えられます。明らかにこの男はダビデを高く見ています。ダビデはこの男が仲間であると分かったものの、どこから来たかは知らなかったので、『どこから来たのか。』と尋ねます。すると彼は戦場から逃げて来た者であると答えます。ダビデは戦いが始まる前にペリシテ軍から離れて帰ったので(Ⅰサムエル29:11)、イスラエルとペリシテ人の戦いがどうなったのか知りませんでした。このため、ダビデは『状況はどうか、話してくれ。』と逃げて来た男に尋ねます。

【1:4~5】
『すると彼は言った。「民は戦場から逃げ、また民の多くは倒れて死に、サウルも、その子ヨナタンも死にました。」ダビデは、その報告をもたらした若者に言った。「サウルとその子ヨナタンが死んだことを、どうして知ったのか。」』
 男は、ダビデに対し、最悪の戦況となったことを報告します。ダビデはサウルとその子ヨナタンおよび多くの兵士が倒れたことを知ります。ダビデは大きな衝撃を受けたに違いありません。何故なら、神の群れが敵に打ち倒されたからです。ダビデは、ちょうど玉音放送を聞いた日本人のようになったと思われます。戦況の報告を受けたダビデは、まず何よりも真っ先に『サウルとその子ヨナタンが死んだこと』をより詳しく知ろうと再び尋ねます。これはこの2人の死がダビデにとってショッキングな話だったからです。私たちも衝撃的な話を聞いた際はより深く知ろうと色々尋ねるものです。ここでダビデは他の者たちでなくこの2人のことを限定的に尋ねています。「多くの民が死んだことを、どうして知ったのか。」などと聞いてはいません。これはダビデにとってこの2人が他の者たちと比べ重要で大きな存在だったからです。

【1:6~10】
『報告をもたらした若者は言った。「私は、たまたま、ギルボア山にいましたが、ちょうどその時、サウルは槍にもたれ、戦車と騎兵があの方に押し迫っていました。サウルが振り返って、私を見て呼びました。私が『はい。』と答えると、サウルは私に、『おまえはだれだ。』と言いましたので、『私はアマレク人です。』と答えますと、サウルが、『さあ、近寄って、私を殺してくれ。また息があるのに、ひどいけいれんが起こった。』と言いました。そこで私は近寄って、あの方を殺しました。もう倒れて生きのびることができないとわかったからです。私はその頭にあった王冠と、腕についていた腕輪を取って、ここに、あなたさまのところに持ってまいりました。」』
 この男は、ダビデに対し、サウルが死んだ経緯について詳しく語ります。それは偽りでなく本当の話でした。ありのままを話したので、この男は死ぬことになります。彼が自分で言っている通り、サウルはこの男に苦しみの終止符を打ってもらう形で死にました。サウルは槍に覆いかかって死のうとしましたが(Ⅰサムエル31:4)、人間の生命はしぶといことが多く、サウルは死のうにも死ねないまま苦しんでいました。このような死の苦しみを味わっている時に、この男が現われたのでした。そして、サウルはこの男に殺されることで苦痛から解放されようとしたのです。この出来事は先の箇所で省略されていました(Ⅰサムエル31:1~6)。聖書でこのような省略はよくあることです。これは病気で死にかかっているのに死ねない患者が、医者か他の誰かに殺して安らがせるよう懇願するのと似ています。この男はサウルに良かれと思ってこうしたのです。それは早く死なせたほうが苦しみもそれだけ早く終わるからです。また敵がサウルを生きたまま捕らえたら悲惨な目に遭わされるのは明らかだったからです。彼にとってサウルの殺害は合理的な判断でした。それは『もう倒れて生きのびることができないとわかったから』です。この男は、サウルが確かに死んだことを示すため、証拠品としてサウル『の頭にあった王冠と、腕についていた腕輪を取って』来ました。これがどういうことかと言えば、彼は自分が誰よりも早くサウルの死を確認したことで栄誉に浸りたかったのです。つまり、彼はサウルのことより自分の栄誉を求めていました。この男はサウルの死を自分のために利用したわけです。これは大きな非難に値します。この男は『若者』でしたが、まだ若かったので燃え上がる虚栄心を抑え込む精神力を持っていなかったのでしょう。年齢に関係なく、今でも「この私こそが第一の発見者である。」という精神から栄誉を得ようとする虚栄の徒がどこでも見られますが、これは人類に一般的な愚かさです。日本でもそうですが、特に有名な人物の亡くなった際に、このような人がしばしば見られるようになります。彼がサウルの王冠と腕輪を持って来たのは、逃げるため少ししか持って行けなかったからであり、2つぐらいは証拠品として必要だったからです。この2つの物品はダビデがよく見慣れていたはずです。ダビデはずっとサウルの近くにいたのですから。

 報告をした若者は『アマレク人』であり、イスラエル人ではありませんでした。しかし、敵としてのアマレク人ではなく、すぐ後で言われている通りイスラエルにおける『在留異国人の子』(Ⅱサムエル1章13節)としてのアマレク人でした。古代のイスラエルでは、たとえ異邦人であっても、ヤハウェに帰依した徴としての割礼を受けていれば、純粋なイスラエル人と同じく天国の相続民となれました。このアマレク人も恐らく割礼を受けていたのでしょう。このため、この若者はサウルの部下としてイスラエル軍に従軍していたわけです。彼がイスラエルの一員であったものの、血としてはアマレク人だったので、サウルを平気で殺せたのかもしれません。何故なら、自分と同じ血を持っていない者に純粋な愛着を抱くのはなかなか難しいからです。血が違うのであれば相手を自分のように考えることが出来にくくなります。このため、このアマレク人はイスラエル人であるサウルの殺害に強力な抵抗を持てなかった可能性があります。もし彼が生まれながらのイスラエル人であれば、サウルの殺害を躊躇していたかもしれません。

【1:11~12】
『すると、ダビデは自分の衣をつかんで裂いた。そこにいた家来たちもみな、そのようにした。彼らは、サウルのため、その子ヨナタンのため、また、主の民のため、イスラエルの家のためにいたみ悲しんで泣き、夕方まで断食した。彼らが剣に倒れたからである。』
 ペリシテ人の報告内容が事実だと分かったので、ダビデとその家来たちは『自分の衣をつかんで裂』きました。これは心が悲しみのあまり引き裂かれたことを、衣において表出させています。これは実に象徴的な振る舞いであり、ユダヤ人とはこのような民族なのですが、それは今でも変わるところがありません。イスラエルに行って当地のユダヤ人を見たことのある人ならば、これはよく分かるはずです。ダビデとその家来たちはもし出来るならば、恐らく自分の身体を引き裂くことで、大きな悲しみを表出させたかったかもしれません。しかし、それは出来ませんから、着ていた衣を引き裂くことだけにしたわけです。

【1:13~16】
『ダビデは自分に報告した若者に言った。「おまえはどこの者か。」若者は答えた。「私はアマレク人で、在留異国人の子です。」ダビデは言った。「主に油そそがれた方に、手を下して殺すのを恐れなかったとは、どうしたことか。」ダビデは若者のひとりを呼んで言った。「近寄って、これを打て。」そこで彼を打ち殺した。そのとき、ダビデは彼に言った。「おまえの血は、おまえの頭にふりかかれ。おまえ自身の口で、『私は主に油そそがれた方を殺した。』と言って証言したからである。」』
 ダビデが報告した若者に尋ねると、その若者はアマレク出身だと分かります。ダビデが尋ねたのは念のためだったのでしょう。もしこの者がサウルと近い関係にあれば殺しにくくなるかもしれないからです。例えば、彼がサウルの親戚だとすれば、ダビデは殺すことを躊躇していたかもしれません。しかし、彼はアマレク人だったので、抵抗なく殺せる者だと分かりました。こうしてダビデは家来である『若者のひとり』を呼び、このアマレク人を殺させました。これは違法行為でありませんでした。何故なら、彼は『自身の口で、『私は主に油そそがれた方を殺した。』と言って証言したから』です。一般の者を殺しても人は死ななければなりません(レビ記24:17)。であれば、サウルという国の支配者を殺した場合は尚のこと殺されねばなりません。家来はダビデの命令に背かずアマレク人を殺しました。この家来は、ギデオンに命じられても殺せなかったあの長男とは違いました(士師記8:20)。ダビデが自分の手で殺さなかったのは、ダビデが支配者だったからでしょう。まだダビデは王になっていませんでしたが、王は自分で手を出さず家来に殺させるものです。勿論、ダビデが自分の手でこのアマレク人を殺すことも可能でした。家来が剣でアマレク人の首を切り落としたのか、槍で心臓を貫いたのか、怪力で殴り殺したのか、その他の殺し方だったのか、私たちには分かりません。しかし、この時の殺し方がどうだったかは私たちにとってどうでもいいことです。

 アマレク人が流したサウルの血は自分自身に降りかかって来ました。『人の血を流す者は、人によって、血を流される。』(創世記9章6節)のだからです。もし彼がサウルを殺していなければ自分も殺されはしなかったでしょう。主君を殺した者が自分も殺されるというのは、今でも変わりません。神に立てられた主君を殺しておきながら、どうしてただで済むでしょうか。ありえません。主君を殺す者は愚か・不幸であって呪われています。

【1:17~18】
『ダビデは、サウルのため、その子ヨナタンのために、この哀歌を作り、この弓の歌をユダの子らに教えるように命じた。』
 サウルとヨナタンはダビデと全イスラエルに重要な存在だったので、ダビデはこの2人に関する悲しみの歌を作りました。これは王とその息子に対して礼節を尽くすことでした。ダビデは詩人また歌い手でした。この歌は『弓の歌』と名付けられました。これはヨナタンが弓使いだったからです(Ⅱサムエル1:22)。ですから、この歌の名前はヨナタンに強く関連付けられています。イスラエル人はこの歌の名前からヨナタンを想起するわけです。もしヨナタンが槍使いだったとすれば「槍の歌」と名付けられていたかもしれません。ダビデはこの歌を自分の部族である『ユダの子らに教えるように命じ』ます。これは自分の部族からサウルとヨナタンの記憶が失われないためでした。記憶するための歌は心における記念碑なのです。

【1:18】
『これはヤシャルの書にしるされている。』
 この哀歌は『ヤシャルの書』に書かれていますが、この書はもう失われています。すなわち、神がこの書を失わせられました。この書が世界に残ることは御心に適っていませんでした。もし適っていれば今でも読むことが出来ていたかもしれません。古代でこのような失われた文書は非常に多くあります。ヤシャルの書についてはヨシュア10:13の箇所でも言及されていました。そこでは、この文書で地球における自転の停止が記録されていると書かれていました。ここではダビデの哀歌がこの文書に記録されていると書かれています。このことから考えると、『ヤシャルの書』は記録に値する出来事や詩を纏めた文書だったと推測されます。この文書が、いつ、どこで、誰により、どのようにして書かれたかは詳しく分かりません。

【1:19】
『「イスラエルの誉れは、おまえの高き所で殺された。』
 『イスラエルの誉れ』とはサウルとヨナタンを指しています。王や王の息子は国家における輝きだからです。自国民であれ他国民であれ王族を見て人々は感嘆するのです。『おまえ』とはこの2人のことであり、『高き所』とはサウルの国にあった高い場所であるギルボア山です。ここでダビデがこの2人に『おまえ』と言っていることを無礼だと感じる人もいるかもしれません。しかし、これはあくまでも詩的な表現ですから許されます。ダビデが実際的にこの2人を『おまえ』と呼ぶことはあり得ません。これは今の女性ポップ歌手が歌の中で「ぼくは…」と歌うのと同じです。女性歌手が「ぼく」と歌っても、それはあくまでも歌の中だけの言い方に過ぎず、実際生活の中で自分のことを「ぼくは…」と言うことはありません。このようにダビデはまずサウルとその子ヨナタンが殺されたことから歌い始めています。この2人が殺されたのは、サウルの罪に対する呪いとして起こりました。しかし、それが呪いによる自業自得の悲惨であったとしても、彼らの死は大いに悲しむべき出来事だったのです。

 ここから1章の最後まで続くこの歌には、このような詩的表現が幾らか見られます。「雅歌」もそうですが、歌ですからこういうものなのです。私たちはこのことをよく弁えておくべきでしょう。

『ああ、勇士たちは倒れた。』
 続いてダビデはイスラエル軍の『勇士たち』が倒れたことを嘆きます。勇士たちが倒れたのも、やはりサウルの罪に対する呪いでした。それは必然的に注がれた呪いでしたが、非常に悲しむべきことでした。ダビデの心はイスラエルにありました。それゆえ、ダビデはイスラエルの敗北を嘆かずにいられませんでした。ところで、ダビデがあの時にアキシュとペリシテ軍から離れたのは幸いでした。もしダビデがペリシテ軍と共にイスラエルと戦っていればどうなっていたでしょうか。ダビデがイスラエル兵を殺したとすれば大いに悲しんでいたでしょう。殺さないため戦わなかったり逃げたりしていれば、アキシュから疑われてしまいます。軍から離れればこの2つのどちらも起こりません。ですから、ダビデが戦わないで帰宅したのは神の御恵みだったことになります。

【1:20】
『これをガテに告げるな。アシュケロンのちまたに告げ知らせるな。ペリシテ人の娘らを喜ばせないために。割礼のない者の娘らを勝ち誇らせないために。』
 ダビデは、イスラエルの敗北をペリシテ人に知らせないよう命じます。『ガテ』とはダビデが仕えていたアキシュの住む王都であり、『アシュケロン』とはガテの西にあり死海の沿岸沿いに位置する場所です。ダビデがこう言ったのは、ペリシテ人の娘たちを歓喜させないためです。女は感情的ですから、イスラエルの敗北を聞いたら大いに喜び笑うでしょう。イスラエルを愛するダビデにとって、それは耐え難いことでした。これは私たちにも理解できるはずです。自国の敗北が敵に喜ばれるというのは、仕方ないものの、非常に大きな屈辱だからです。例えばこれから日本が中国との戦争に負けたとして、その敗北を中国人が大いに喜んだとすれば、私たちの中で誰が屈辱的に感じないでしょうか。普通の日本人であれば恐らく耐えられないでしょう。ですから、日本が負けることになった場合、私たちは「日本の敗北を中国に告げるな。中国人の巷に告げ知らせるな。」と言いたくなるはずです。ここでダビデが言っているのは預言ではありません。これは同族に対する命令です。ですから、イスラエル人はダビデの命令通り、自分自身からペリシテ人に自国の敗北を告げはしなかったはずです。ですが、これは預言ではありませんから、ペリシテ人がイスラエルの敗北を知らないままでいるということを意味しません。それゆえ、ダビデがイスラエル人にイスラエルの敗北を告げないよう命じたとしても、ペリシテ人は恐らくイスラエルの敗北を知ったはずです。

【1:21~22】
『ギルボアの山々よ。おまえたちの上に、露は降りるな。雨も降るな。いけにえがささげられた野の上にも。そこでは勇士たちの盾は汚され、サウルの盾に油も塗られなかった。ただ、殺された者の血、勇士たちのあぶらのほかは。』
 ダビデは、サウルたちが倒れた『ギルボアの山々』に露も雨も注がれないよう望みます。『勇士たちの盾は汚され、サウルの盾に油も塗られなかった』のです。ただ彼らに注がれたのは『殺された者の血、勇士たちのあぶら』だけでした。つまり、サウルたちには望ましくない液体だけが注がれました。もしギルボア山に露や雨が降るとすれば、サウルたちと調和しません。ギルボア山には露や雨といった望ましい液体が注がれているのに、サウルたちには血や油といった望ましくない液体が注がれたからです。ですから、ダビデはサウルたちが倒れたギルアデ山もサウルたちと同じになるよう願ったのです。サウルたちとは違ってギルボア山に望ましい液体が注がれていれば、それは見るに堪えない光景なのです。ここで『露』や『雨』という神の御恵みが嫌悪されているわけではありません。ダビデがこのような御恵みを嫌悪するはずはありません。ただダビデはサウルたちの死を悔やんでいるだけです。また、この箇所の言葉も預言では無かったはずです。ダビデは単にサウルたちの悲惨を嘆いているだけです。もしこれが必ず実現する預言だったとすれば、聖書には「あの日以降、ギルボア山には雨が降らなくなっていた。」などと書かれていたはずです。しかし、聖書のどこにもこのようなことは書かれていません。ですから、これ以降もギルボア山に対し神は露また雨を降らせた可能性が高いのです。