【Ⅱサムエル記14:1~15:9】(2023/03/05)


【14:1】
『ツェルヤの子ヨアブは、王がアブシャロムに敵意をいだいているのに気づいた。』
 ダビデは、息子を殺したアブシャロムに対し『敵意』を持ち続けていました。アブシャロムは決してすべきでないことをしたのですから、ダビデから敵意を持たれて当然でした。しかし、ダビデは彼を憎んでいたのではありません。家族であれば、敵対するものの憎まないということが可能です。もし憎んでいたとすれば、後ほどアブシャロムが死んだ際、ダビデは彼のことで嘆いたりしなかったでしょう(Ⅱサムエル18:33)。この敵意にヨアブは気付きます。それはダビデのアブシャロムに対する敵意が本物だったからです。何事であれ本物の思いは外面に多かれ少なかれ表出されずにはいません。例えば、ある男がある女を本当に恋していたとします。この場合、男は恋する女が近くにいるとソワソワしたり普通でなくなるので、その女を恋していると誰でも分かるのです。

【14:2~5】
『ヨアブはテコアに人をやって、そこからひとりの知恵ある女を連れて来て、彼女に言った。「あなたは喪に服している者を装い、喪服を着て、身に油も塗らず、死んだ人のために長い間、喪に服している女のようになって、王のもとに行き、王にこのように話してくれまいか。」こうしてヨアブは彼女の口にことばを授けた。テコアの女は、王に話したとき、地にひれ伏し、礼をして言った。「お救いください。王さま。」それで、王は彼女に言った。「いったい、どうしたのか。」』
 ダビデのアブシャロムに対する敵意を知ったヨアブは、このままでは良くないと感じます。何故なら、アブシャロムは王子であって、追放されたままでいるべきでなく、都にいるべきだからです。しかし、ダビデが彼に敵意を持っているのでは、アブシャロムが都に戻ることもできません。もしアブシャロムが戻ればダビデはアブシャロムに対して何をするか分からないからです。このため、ヨアブは問題を解決するためダビデに働きかけようとします。ヨアブは、『テコア』にいた『知恵のある女』を使い、ダビデのもとに話をさせに行かせます。彼女のいた『テコア』という場所は、エルサレムから20kmほど南に離れた場所にあります。ヨアブが彼女を使ったのは、彼女が『知恵のある女』だったからです。ヨアブは彼女を変装させるのですが、化けることにおいて知恵ある女ほど巧みにやってのける者はいないのです。女はただでさえ化けるのが上手いのに、知恵があればどれだけ巧みに化けられるでしょうか。この女の名前が何だったかは書かれていませんが、彼女の名前は別にどうでもいいことです。

【14:5~7】
『彼女は答えた。「実は、この私は、やもめで、私の夫はなくなりました。このはしためには、ふたりの息子がありましたが、ふたりが野原でけんかをして、だれもふたりを仲裁する者がいなかったので、ひとりが相手を打ち殺してしまいました。そのうえ、親族全体がこのはしために詰め寄って、『兄弟を打った者を引き渡せ。あれが殺した兄弟のいのちのために、あれを殺し、この家の世継ぎをも根絶やしにしよう。』と申します。あの人たちは残された私の一つの火種を消して、私の夫の名だけではなく、残りの者までも、この地上に残さないようにするのです。」』
 女は早速、ヨアブが指示した通りのことをダビデに言います。この女がダビデに言ったことはどれも作り話に過ぎません。まず彼女は自分が夫を失った『やもめ』だとダビデに告げます。夫が亡くなったというのは偽りでしょうが、彼女が実際に夫を持っていたのか独身者だったのかは分かりません。次に彼女は、自分の『ふたりの息子』のうち一方の息子が他方の息子を喧嘩により殺したと話します。この2人の兄弟は、アブシャロムとアブシャロムに殺されたアムノンを暗示しています。続いて彼女は、『親族全体』が殺人者である息子を殺して根絶やしにすべきだと言ったことについて話します。つまり、この作り話の中で、『親族全体』は殺人者である兄弟に敵対しています。これはダビデがアブシャロムに敵対していたことを示しています。この通り、ヨアブがこの女に言わせた話の全ては、ダビデとアブシャロムおよびアムノンに対応していました。ヨアブは戦場で巧みな戦略を練る指揮官でしたから、こういった対応度の高い巧みな作り話を考える力に長けていたのでしょう。

【14:8~11】
『王は女に言った。「家に帰りなさい。あなたのことで命令を出そう。」テコアの女は王に言った。「王さま。刑罰は私と私の父の家に下り、王様と王位には罪がありませんように。」王は言った。「あなたに文句を言う者がいるなら、その者を、私のところに連れて来なさい。そうすれば、もう二度とあなたを煩わすことはなくなる。」そこで彼女は言った。「どうか王さま。あなたの神、主に心を留め、血の復讐をする者が殺すことを繰り返さず、私の息子を根絶やしにしないようにしてください。」王は言った。「主は生きておられる。あなたの息子の髪の毛一本も地に落ちることはない。」』
 ダビデは女に憐れみをかけ、女が悩まされている問題を解決してやることにしました。すなわち、ダビデは女の親族に対して『命令を出』し、親族が殺人者である女の息子に手を出さないようにするつもりでした。もっとも、女が言ったことは作り話だったので、ダビデが命令を出そうにも、命令を受ける親族など何処にもいなかったのですが。ダビデはその親族に恐らく何らかの『刑罰』を下すつもりでいたはずです。もし刑罰を受ければ親族はおとなしくなるだろうからです。女はダビデがこの刑罰を下すことで、ダビデとその王位に罪とならないよう願っています。彼女がこのように言ったのは、話の内容を真実らしく思わせるためでした。彼女は知恵があったのでそのようにしました。10節目でダビデは、もし女に文句を言う者がいればその者の口を封じてやろうと言い、問題の解決に非常な自信を見せています。すると女は11節目で、ダビデが主において問題を解決してくれるようにと願い求めます。この求めに対して、ダビデは『主は生きておられる。』と言って誓いつつ応じます。ダビデが『あなたの息子の髪の毛一本も決して地に落ちることはない。』と言っているのは、つまり女の子どもが『髪の毛一本』さえも害されないほど完全に保護されるという意味です。パウロもこのような言い方を用いています。

 このようにダビデは女の息子を保護すると約束したことで、事実上自分の息子を保護することとなりました。というのも、女が話していた殺人者の息子とは同じく殺人者であるダビデの息子アブシャロムの比喩だったからです。ダビデは他人の息子を守ることにしたのですから、その息子と同じ境遇にある自分の息子を守らないというのは、全くおかしいことなのです。このようにダビデが知らず知らずのうちにアブシャロムを保護すると言うことこそ、ヨアブの狙いだったのです。王に自分の態度を変えさせるためには、王が知らず知らずのうちに自分の持っている態度とは異なる態度を持つようにさせるのが確実な手法だからです。ナタンもダビデの罪を責める際は、この手法を用いました(Ⅱサムエル12章)。このようにすれば危険を冒すことなく王の考えを変えさせることができるのです。

【14:12~17】
『するとその女は言った。「このはしために、一言、王さまに申し上げさせてください。」王は言った。「言いなさい。」女は言った。「あなたはどうして、このような神の民に逆らうようなことを、計られたのですか。王は、先のようなことを語られて、ご自分を罪ある者とされています。王は追放された者を戻しておられません。私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。今、私が、このことを王さまにお話しにまいりましたのも、人々が私をおどしたからです。それで、このはしためは、こう思いました。『王さまにお話ししてみよう。王さまは、このはしための願いをかなえてくださるかもしれない。王さまは聞き入れて、私と私の子を神のゆずりの地から根絶やしにしようとする者の手から、このはしためをきっと助け出してくださるでしょうから。』それで、このはしためは、『王さまのことばは私の慰めとなろう。』と思いました。王さまは、神の使いのように、善と悪とを聞き分けられるからです。あなたの神、主が、あなたとともにおられますように。」』
 話が一区切り付いたので、テコアの女は実際の名前さえ出さなかったものの、大胆にアブシャロムの件に言及します。もうダビデは自分の言ったことによりアブシャロムを保護しなければいけなくなりましたから、アブシャロムについて言及すべき時となったわけです。ダビデは女の息子を守ると言いながら、自分の息子は守らないわけにいかなかったでしょうから。こうして女はアブシャロムを追放されたままにしておかないよう懇願します。ここまで話を繋げることが出来たのは、女に知恵があったので、巧みに話の内容を信じ込ませることが出来たからです。ダビデはまさかこの女が出鱈目な話をしているなどと思わなかったはずです。

 17節目で女が言っている通り、ダビデは『神の使いのように、善と悪とを聞き分けられる』人でした。女がこのように言ったのは誇張とか御世辞ではありません。何故なら、ダビデは神の善悪が示された律法を持っていたからです。ダビデは基本的にこの律法に堅く立っていました。ですから、律法に基づいて善と悪を判断し裁いていました。「基本的」と言ったのは、ウリヤの件のように律法を無視することもあったからです。『神の使い』は完全に『全と悪とを聞き分けられる』存在です。ダビデもそのような存在に似ていました。ですから、ここで女がダビデを『神の使いのよう』だと言っているのは間違っていませんでした。しかし、ダビデが神の使いというわけではありませんでした。また女は『あなたの神、主が、あなたとともにおられますように。』とここでダビデに言っています。これはダビデが自分と共にいて下さる神において正しい判断をするよう求めているのです。私たちも聖書に堅く立つならば、ダビデのように善と悪を聞き分けられるでしょう。たとえどれだけ愚かな人であってもそうです。

 14節目で女が言っているのはどういった意味なのでしょうか。まず『私たちは、必ず死ぬ者です。』と言われているのは、人間の一般的なことです。しかし、ここではアブシャロムが死ぬことを言っています。文脈を考えれはこれは明らかです。次に『私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。』と言われているのは、人間を水に例えています。これもやはりアブシャロムの死のことです。人間の人生は、水が地面に至るまでこぼれ落ちる時期のようです。水が地面にこぼれてしまえば『もう集めること』はできません。それと同じで、アブシャロムも死んでしまえば、もう取り返しが付かなくなります。『神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。』と言われているのも、死のことです。人は死んだら、死んだままの状態でいます。アブシャロムも死んだならば、死んだ状態のままでいることになります。しかし、この部分で言われているのは一般的なことです。神は、贖われた聖徒を死から蘇らせて再び生きるようにして下さるからです。要するに、女はアブシャロムを殺したらもう取り返しが付かなくなるから殺すのは止めるべきだ、とダビデに言っているのです。

【14:18~20】
『すると、王はこの女に答えて言った。「私が尋ねることを、私に隠さず言ってくれ。」女は言った。「王さま。どうぞおっしゃってください。」王は言った。「これは全部、ヨアブの指図によるのであろう。」女は答えて言った。「王さま。あなたのたましいは生きておられます。王さまが言われることから、だれも右にも左にもそれることはできません。確かにあなたの家来ヨアブが私に命じて、あの方がこのはしための口に、これらすべてのことばを授けたのです。あなたの家来ヨアブは、事の成り行きを変えるために、このことをしたのです。あなたさまは、神の使いの知恵のような知恵があり、この地上のすべての事をご存じですから。」』
 ダビデは女がヨアブから送られたことを悟りました。そのためダビデが女に尋ねると、女は包み隠さず答えたので、全てが明らかとなりました。『ヨアブは、事の成り行きを変えるために』、女をダビデのもとに送ったのです。ヨアブが自分自身でやろうとせず、女を用いたのは、恐らく自分でやっても成功しないかもしれないと考えたからなのかもしれません。何故なら、もし自分でやって成功すると思ったならば、どうしてわざわざ女を用いたのでしょうか。自分でやって上手に行くならば、どう考えても最初から自分でやればいいのです。

 19節目で女が『王さま。あなたのたましいは生きておられます。』と言っているのは、ダビデ王の前で誓っているのです。女はダビデの魂について何か言っているのではありません。これは誓いの際に述べる慣用句でした。これは「主は生きておられる。」という言葉の人間バージョンだと考えればいいでしょう。「主は生きておられる。」という言葉の場合、神の御前で誓うのです。

 20節目で女が言っている通り、ダビデには『神の使いの知恵のような知恵があり』ました。これはダビデが神の知恵である律法を持っていたからです。ダビデ自身としては愚かな罪人に過ぎませんでした。ですから、ダビデがもし律法を知らなければ、ダビデに知恵はなかったでしょう。私たちも聖書に堅く立つならば、ダビデのような知恵を持つことができます。私たちがどうであるかは関係ありません。聖書に堅く立つかどうかが問題です。神の知恵を取り入れた者は神の知恵を持つのだからです。また女はダビデが『この地上のすべての事をご存じ』だとも言っています。これは厳密に言えば誇張です。何故なら、ダビデが地上の全てを知っているということはあり得ないからです。もしダビデが文字通りの意味で地上の全てを知っていたとすれば、ダビデは神だったことになります。女がこのように言ったのは、ダビデほど地上について知っている者は誰もいないという意味でしょう。王や大統領といった支配者の情報網がどれだけ凄まじいかは私たちもよく知るところです。

【14:21~24】
『それで、王はヨアブに言った。「よろしい。その願いを聞き入れた。行って、若者アブシャロムを連れ戻しなさい。」ヨアブは地にひれ伏して、礼をし、王に祝福のことばを述べて言った。「きょう、このしもべは、私があなたのご好意にあずかっていることがわかりました。王さま。王さまはこのしもべの願いを聞き入れてくださったからです。」そこでヨアブはすぐゲシュルに出かけて行き、アブシャロムをエルサレムに連れて来た。王は言った。「あれは自分の家に引きこもっていなければならない。私の顔を見ることはならぬ。」それでアブシャロムは家に引きこもり、王の顔を見なかった。』
 このようにしてダビデはその態度を変えさせられてしまいました。それはヨアブが知恵をもってダビデに働きかけたからです。道理を認めさせるための良い策略であれば賢い王はすんなりと受け入れるものなのです。ダビデがヨアブの求めを受け入れたのは、ヨアブがダビデの『好意にあずかっている』からでもありました。もしヨアブがダビデに嫌われていたら、このようにダビデがヨアブの求めを受け入れていたかは定かでありません。というのも、嫌いな者の求めを受け入れるのはストレスになるからです。このようになったのは、神がヨアブを通してダビデに働きかけたからでした。神はダビデが子アブシャロムを罰して殺さないように守られたのです。ですから、ヨアブがダビデに働きかけたのは、神の恵みだったのです。もし神がこのように働きかけておられなければ、ダビデはどうなっていたでしょうか。その場合、ダビデは恐らくアブシャロムに敵意を持ち続けていたはずです。そして機会が訪れたならば、ダビデはアブシャロムの死罪を罰していたかもしれません。

 ダビデが態度を変えると、ヨアブは早速、アブシャロムをゲシュルからエルサレムに連れ戻します。このようなったことについて、アブシャロムは期待通りだと思ったでしょうか、それとも思いがけないことが起きたと思ったでしょうか。聖書には何も書かれていないので分かりません。アブシャロムはエルサレムに戻ったものの、『家に引きこもっていなければならな』かったので、ダビデ王と会うことは全く出来ませんでした。ダビデはアブシャロムに情けをかけたものの、会うことまではしたくありませんでした。何故なら、アブシャロムは忌むべき兄弟殺しの罪を犯したからです。

【14:25】
『さて、イスラエルのどこにも、アブシャロムほど、その美しさをほめはやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで彼には非の打ちどころがなかった。』
 アブシャロムは、サウルと同じで(Ⅰサムエル9:2)、非常に美しい者でした。つまり、外観的に神から恵まれていました。これは父であるダビデが外観的に恵まれていた遺伝だったのでしょうか(Ⅰサムエル16:12)。これはダビデの外観が遺伝したというより、母である『マアカ』(Ⅱサムエル3:3)の外観が遺伝したと考えるべきかもしれません。何故なら、アブシャロムと同じ母を持つタマルも、既に見た通り、美しかったからです。ダビデの子の中で美しいと言われているのはこの2人だけなのですから、アブシャロムの美しさはタマルの美しさと共に母の遺伝だった可能性が高いのです。このようにアブシャロムは外観こそ美しかったものの、その心は美しくありませんでした。ベーコンも言った通り、外観的に美しい者の内面は、普通であるか普通以下であることが多いのです。だからこそアブシャロムは兄弟を殺すという忌まわしい悪に進んだわけです。「天は二物を与えず」とはこのことでしょう。

【14:26】
『彼が頭を刈るとき、―毎年、年の終わりには、それが重いので刈っていた。―その髪の毛を量ると、王のはかりで二百シェケルもあった。』
 アブシャロムが髪を刈るのは年に一度、『年の終わり』だけでした。これはかなり長い頻度です。1年に一度ですから、一度に刈る髪の量は多く、その量は『王のはかりで二百シェケル』ありました。『王のはかり』については詳しく分かりませんが、一般的に1シェケルは11.4グラムでしたから、この一般的な量りで考えるならば、アブシャロムが一度に刈った髪の量は2280gすなわち約2kgでした。アブシャロムが1年に1度しか刈らなかったのは、これまでずっとそうだったのでしょうか、それともエルサレムに引きこもっている時期のことだったでしょうか。これはよく分かりません。もしエルサレムに引きこもっている時期のことだったとすれば、このぐらいの頻度でしか刈らなかったとしても困りはしなかったでしょう。何故なら、アブシャロムは引きこもっていたゆえ、あまり多くの人と会わなかったはずだからです。これが引きこもっている時期のことであれば、誰がこの頻度で刈るように定めたのか分かりません。ダビデがそう命じたのかもしれませんし、アブシャロムが単に面倒だったのかもしれませんし、自然の成り行きでこの頻度になった可能性もあります。

【14:27】
『アブシャロムに、三人の息子と、ひとりの娘が生まれた。その娘の名はタマルといって非常に美しい娘であった。』
 アブシャロムには全部で4人の子どもがいました。つまり、アブシャロムは妻帯者でした。彼は『ひとりの娘』に、妹と同じ名前である『タマル』という名前を付けました。これはアブシャロムが妹を大事に思っていたことの現われなのかもしれません。古代人で子に親族と同じ名前を付けるのは珍しくありませんでした。例えば、アリストテレスは息子にアリストテレスの父と同じ名前であるニコマコスと名付けました。

【14:28】
『アブシャロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王には一度も会わなかった。』
 アブシャロムはエルサレムに戻されてから、『二年間』経ってもまだダビデ王と全く会っていませんでした。アブシャロムが会いたいと思ったのかどうかは分からないものの、ダビデが面会を拒絶していたのです(Ⅱサムエル14:24)。

【14:29】
『それで、アブシャロムは、ヨアブを王のところに遣わそうとして、ヨアブのもとに人をやったが、彼は来ようとしなかった。アブシャロムはもう一度、人をやったが、それでもヨアブは来ようとはしなかった。』
 アブシャロムはダビデ王に言いたいことがあったので、ヨアブを王のもとに遣わすべく呼び出します。しかし、ヨアブはその呼び出しに応じませんでした。2回もヨアブはアブシャロムの呼び出しを無視しました。アブシャロムが呼び出しを無視したのは、ダビデの態度に合わせたのでしょう。ダビデがアブシャロムに会おうとしていませんでしたから、ヨアブは会わないほうが良いと思ったのかもしれません。たとえ王子の呼び出しであろうとも、王のほうを何より考慮すべきだったからです。

【14:30~32】
『アブシャロムは家来たちに言った。「見よ。ヨアブの畑は私の畑のそばにあり、そこには大麦が植えてある。行ってそれに火をつけよ。」アブシャロムの家来たちは畑に火をつけた。するとヨアブはアブシャロムの家にやって来て、彼に言った。「なぜ、あなたの家来たちは、私の畑に火をつけたのですか。」アブシャロムはヨアブに答えた。「私はあなたのところに人をやり、ここに来てくれ、と言わせたではないか。私はあなたを王のもとに遣わし、『なぜ、私をゲシュルから帰って来させたのですか。あそこにとどまっていたほうが、まだ、ましでしたのに。』と言ってもらいたかっのだ。今、私は王の顔を拝したい。もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない。」』
 ヨアブが呼び出しを無視したので、アブシャロムはヨアブの畑に火をつけさせます。こうすればヨアブは必ずやって来るだろうと考えたからです。実際、畑を燃やされたヨアブはアブシャロムのところに来ました。アブシャロムのこの行為からも分かりますが、彼は情動を理性により抑制できない人物でした。しかし、彼がまだ『若者』(Ⅱサムエル14:21)だったというのも理由としてあるかもしれません。

 アブシャロムはエルサレムで閉じ込められた生活に飽き飽きしていました。エルサレムで引きこもっているぐらいならば、ゲシュルにずっといたほうがましだと思えました(32節)。また、アブシャロムはどうして自分がエルサレムに連れ戻されたのか分かっていませんでした。このため、彼はヨアブを通してダビデと話をしたかったわけです。アブシャロムが自分自身でダビデのもとへ行くのは許されないことでした。彼が『王の顔を拝したい』と思ったのは、彼の状況を考えれば、自然なことでした。また彼が『もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない。』と言ったのは、恐らくアムノン殺しを念頭に置いた発言であると思われます。ここまでに書かれたアブシャロムの言動を考えるならば、彼が奔放で自制力のない者だったことは明らかです。このアブシャロムは、同じく美しさをほめはやされたものの奔放だった古代ギリシャのアルキビアデスと同じ匂いが感じられます。

【14:33】
『それで、ヨアブは王のところに行き、王に告げたので、王はアブシャロムを呼び寄せた。アブシャロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブシャロムに口づけした。』
 アブシャロムから話を聞いたヨアブは、ヨアブのことでダビデ王に告げることとしました。するとダビデはアブシャロムを招いたので、アブシャロムはダビデと面会することが出来ました。アブシャロムがダビデの前にひれ伏したのは当然のことです。ダビデが『アブシャロムに口づけした』のは、親としての愛情を示すためです。あまり触れ合いをしない日本人であれば、これは少し理解しにくいところがあるかもしれません。しかし、古代ユダヤでこういった触れ合いは特に珍しくありませんでした。

【15:1】
『その後、アブシャロムは自分のために戦車と馬、それに自分の前を走る者五十人を手に入れた。』
 ダビデと面会してから後、アブシャロムは『戦車と馬』および『自分の前を走る者五十人』を獲得しました。究極的に言えば、これは神が彼に与えられたものです。しかし、これらを実際に与えた人間は誰だったのでしょうか。これはよく分かりません。ダビデが与えたのかもしれませんし、アブシャロムが自分自身で手に入れたのかもしれません。『走る者』の数が『五十人』だったのは、かなり多かったはずです。この50という数字に何か象徴的な意味はないでしょう。彼らはつまり仕えるための僕であって、アブシャロムのために伝令の役割を担ったり、何かを持ち運んだりするわけです。『戦車と馬』がどれだけの数だったのかは不明です。

【15:2~6】
『アブシャロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者があると、アブシャロムは、そのひとりひとりを呼んで言っていた。「あなたはどこの町の者か。」その人が、「このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者です。」と答えると、アブシャロムは彼に、「ご覧、あなたの訴えはよいし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない。」と言い、さらにアブシャロムは、「ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが。」と言っていた。人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした。アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。』
 古代の国で裁きが行なわれていた場所は街の門でした。今のように裁判をする専用の建物があったのではありません。言うなれば門の場所が裁判所でした。ですから、問題のある者たちは門に来て裁判をしていたのです。イスラエルもこのようでした。イスラエルの街の門には裁き司がいたのです。アブシャロムはこの『門に通じる道のそば』に立ち、訴えを持って来るイスラエル人たちに対応し、彼らをダビデと会わせようとしませんでした。アブシャロムが人々に『手を差し伸べて』、『抱き、口づけをした』ものですから、その人々はアブシャロムに心を奪われてしまいました。今の時代で皇族や王族の方が、一般人にこういったことをすると考えると、どうでしょうか。美しさをほめはやされている皇太子や王子が非常にフレンドリーな態度で一般人を歓迎してくれます。こうであれば多くの人がその皇族や王族に好印象を持つことは間違いありません。聖書はこのようにしてアブシャロムが『イスラエル人の心を盗んだ』と言っています。誰から盗んだかといえば「ダビデから」です。イスラエル人の心は本来的にダビデに結び付けられるべきだからです。つまり、アブシャロムはダビデに対し盗みの罪を犯していました。アブシャロムがこのようにしたのは、4節目からも分かる通り、『さばきつかさ』になりたいという野心によりました。今もそうですが、若者でこういった野心の暴走を抑えられない者はそれなりに見られるものです。

【15:7~8】
『それから四年たって、アブシャロムは王に言った。「私が主に立てた誓願を果たすために、どうか私をヘブロンへ行かせてください。このしもべは、アラムのゲシュルにいたときに、『もし主が、私をほんとうにエルサレムに連れ帰ってくださるなら、私は主に仕えます。』と言って誓願を立てたのです。」』
 『それから四年た』ちましたが、この間の4年間については、聖書で省かれています。恐らくその4年間にはこれといって書くべき出来事も起こらなかったのかもしれません。しかし、4年が経つと、アブシャロムが誓願を果たすためヘブロンに行きたいと言います。アブシャロムによれば、彼は『ゲシュルにいたとき、『もし主が、私をエルサレムに連れ帰ってくださるなら、私は主に仕えます。』』という誓いを立てていたようです。しかし、これは嘘でした。続く箇所を見れば分かる通り、アブシャロムがヘブロンに行ったのは、主に仕えるどころか謀反を起こすためだったからです。このヘブロンという場所はエルサレムから30kmほど南に離れています。このように嘘を付いたアブシャロムですが、嘘を付くというのは危険の前兆です。何故なら、嘘を付くならば、その嘘に続いて諸々の罪がぞろぞろ列をなしてやってくるからです。もしアブシャロムがこのような誓願を本当に立てていたとすれば、それは喜ばしいことだったでしょう。しかし、それは嘘でしたから質が悪かったと言わねばなりません。

【15:9】
『王が、「元気で行って行きなさい。」と言ったので、彼は立って、ヘブロンへ行った。』
 ダビデはまさかアブシャロムが嘘を付いているなどと思わなかったので、何も知らずアブシャロムを気持ちよく行かせてしまいます。アブシャロムは悪のためヘブロンに行ったのですが、ダビデはそのことを知りませんでしたから、アブシャロムを送り出したことについてダビデは責任がなかったはずです。何故なら、知らなかったのであればどうして知っているかのように引き止めたり注意したりすることができましょうか。