【Ⅱサムエル記15:10~16:8】(2023/03/12)


【15:10~12】
『そのとき、アブシャロムはイスラエルの全部族に、ひそかに使いを送って言った。「角笛の鳴るのを聞いたら、『アブシャロムがヘブロンで王になった。』と言いなさい。」アブシャロムは二百人の人々を連れてエルサレムを出て行った。その人たちはただ単に、招かれて行った者たちで、何も知らなかった。アブシャロムは、いけにえをささげている間に、人をやって、ダビデの議官をしているギロ人アヒトフェルを、彼の町ギロから呼び寄せた。この謀反は根強く、アブシャロムにくみする民が多くなった。』
 こうしてアブシャロムは、ヘブロンに行くこととなりました。神がアブシャロムの行なおうとしている謀反を許可されたのです。それは、アブシャロムが裁かれて死ぬためでした。既に見た通り、ダビデの場合、死罪を悔い改めたので、神から見過ごされ、死の罰を免れました。しかし、アブシャロムは兄弟殺しの死罪を悔い改めていなかったはずです。少なくとも聖書ではアブシャロムが悔いたなどと示されていません。アブシャロムが罪を見過ごされていなければ、彼は死罪に対する罰を受けるべきなのですから、これからその罰を受けるのです。もしアブシャロムもダビデのように悔い改めていたとすれば、神からの刑罰を免れることが出来たでしょう。何故なら、神は憐れみ深い御方だからです。このようにしてアブシャロムはヘブロンに行こうとしましたが、その際、鳴り響く角笛こそ自分が王になる合図であると告げ知らせます。これは勝手に王となることです。神はアブシャロムを王として立てておられないからです。神の召し抜きで王になろうとする者は、全て不正な王です。アブシャロムはエルサレムを出る際、『二百人』を連れて行きましたが、彼らはまさかアブシャロムがこれから謀反を企てようとしているなどと思いませんでした。この大勢の人々がどのようだったかは分かりません。民衆ばかりだったのかもしれず、王族もいたかもしれず、政府の関係者もいたかもしれません。『二百』という数字に象徴的な意味はないはずです。この時、アブシャロムは『いけにえをささげ』たと12節目で書かれています。誰に捧げたかといえば、それは神にでしょう。しかし、神は彼の宗教行為を喜ばれなかったはずです。何故なら、アブシャロムは心が悪かったからです。『悪者の生贄は神に忌み嫌われる。悪意をもって捧げる時は、尚のこと。』と箴言では書かれています。アブシャロムはこの生贄を捧げている時、使いを遣わして『ダビデの議官をしているギロ人アヒトフェル』を自分の味方に加えました。国家の高官でさえアブシャロムの陣営に引き込まれてしまいました。これは大きなことです。この時の『謀反は根強く、アブシャロムにくみする民が多くな』りました。これはアブシャロムが前々からずっと『イスラエル人の心を盗ん』(Ⅱサムエル16章6節)でいたからです。数年前からの積み重ねがありました。アブシャロムが積み重ねた民衆の買収行為は、この時に至り実を結ぼうとしていました。このように謀反を企てたアブシャロムでしたが、ダビデはまさか息子がこのようなことをするなどと思わなかったでしょう。しかし、こういった予期せぬ事件が起こるのは世の常なのです。『何が起こるかを知っている者はいない。』と伝道者の書で書かれている通りです。

【15:13】
『ダビデのところに告げる者が来て、「イスラエル人の心はアブシャロムになびいています。」と言った。』
 アブシャロムの謀反はダビデにも告げ知らされました。神がダビデにそのことを知らされたのです。それは、ダビデがすぐアブシャロムの謀反を知ることで、アブシャロムに襲われないよう逃げられるためでした。正しい者はこのように神から守られるのです。

【15:14】
『そこでダビデはエルサレムにいる自分の家来全部に言った。「さあ、逃げよう。そうでないと、アブシャロムからのがれる者はなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの町を打つといけないから。」』
 アブシャロムの謀反について聞いたダビデは、逃げなければ大変なことになると悟ります。何故なら、神はかつてダビデに『今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。』(Ⅱサムエル12章10節)と宣告しておられたからです。このため、これから悲惨が近付いていることは分かり切ったことでした。こうしてダビデはアブシャロムから逃げようと決めます。ダビデは『すぐ出発しよう』としました。速やかに逃げないとアブシャロムから襲われてしまうだろうからです。しかし、アブシャロムがこのように危険な存在となったのは、ダビデが極悪の罪を犯したからでした。神はその罪に対する懲らしめとして、アブシャロムをこのようにしておられたのです。もしダビデが死罪を犯していなければ、アブシャロムもこのような状態にはなっていなかったでしょう。

【15:16~18】
『こうして王は出て行き、家族のすべての者も王に従った。しかし王は、王宮の留守番に十人のそばめを残した。王と、王に従うすべての民は、出て行って町はずれの家にとどまった。王のすべての家来は、王のかたわらを進み、すべてのケレテ人と、すべてのペレテ人、それにガテから王について来た六百人のガテ人がみな、王の前を進んだ。』
 こうしてダビデはエルサレムから逃げることにしましたが、ダビデの家来全てもダビデに続きました。このことから分かる通り、民の全てがアブシャロムに寝返ったわけではありません。いかに大きい謀反が生じた際でも、必ず王と共にいる者たちがいるものです。それは根本から王に忠誠を誓うような者が多かれ少なかれ必ずいるからです。そのような者たちは謀反が起きても決して王から離れず、たとえ死んでも王に忠実であり続けます。ダビデはエルサレムから出て『町はずれの家にとどま』ります。この時にダビデの家来はダビデの『かたわら』を進みましたが、これは彼らが重要な存在だからです。一方、『すべてのケレテ人と、すべてのペレテ人、それにガテからついて来た六百人のガテ人』は『王の前を進んだ』のですが、これはダビデをアブシャロムの勢力から守るためです。ガテ人の人数が『六百』(人)だったのは何も象徴的な意味を持たないはずです。聖書において600は特別な数字ではありません。また、この時にはダビデの『家族』もダビデと共に逃げました。これは家族がアブシャロムの勢力から襲われないためだったはずです。アブシャロムは既に兄弟であるダビデの家族を殺していますから、再びダビデの家族を殺しかねないからです。

 ダビデは逃げる際、『王宮の留守番に十人のそばめを残し』ます。どうしてダビデは留守番役としてそばめを選んだのでしょうか。そばめであればアブシャロムに上手な対処を行なえると思ったからなのでしょうか。それともそばめであれば、たとえ殺されたとしても構わないと感じたからなのでしょうか。ダビデが彼女たちを選んだ理由はよく分かりません。しかし、彼女たちが選ばれたのは、神がそうなるよう定められたからでした。神がかつてダビデに『あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。』(Ⅱサムエル12章11節)と言われたのは、この10人のそばめたちにおいて実現されるのです。彼女たちの数が10人だったのは特別な意味を持つはずです。これは「10」(人)ですから、留守番役として全く十分な人数であることを示しているはずです。

【15:19~22】
『王はガテ人イタイに言った。「どうして、あなたもわれわれといっしょに行くのか。戻って、あの王のところにとどまりなさい。あなたは外国人で、それに、あなたは、自分の国からの亡命者なのだから。あなたは、きのう来たばかりなのに、きょう、あなたをわれわれといっしょにさまよわせるに忍びない。私はこれから、あてどもなく旅を続けるのだから。あなたはあなたの同胞を連れて戻りなさい。恵みとまことが、あなたとともにあるように。」イタイは王に答えて言った。「主の前に誓います。王さまの前にも誓います。王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます。」ダビデはイタイに言った。「それでは来なさい。」こうしてガテ人イタイは、彼の部下全部と、いっしょにいた子どもたち全部とを連れて、進んだ。』
 ダビデが逃げる時には、『ガテ人イタイ』もダビデに付いて行きました。このイタイはガテ国からイスラエルに亡命して来たガテ人でした。このことからも分かる通り、イスラエルとは基本的に選民だけの国であったものの、亡命者であれ改宗者であれ異邦人を受け入れてもいました。これはイスラエルの王であられる神が寛大な御方だったからです。神は、求める者を御自分の国に拒まれませんでした。しかし、ダビデはこのイタイが自分の国に帰るよう命じます。何故なら、イタイは『きのう来たばかり』だったので、すぐにも放浪の苦難を味わわせるのはダビデにとって『忍びない』ことだったからです。つまり、ダビデは異邦人であるイタイを嫌ったのでなく、イタイに配慮してこう命じたのでした。ですから、ダビデはイタイに『恵みとまことが、あなたとともにあるように。』と言っています。ダビデはイタイのことを思いやっていたのです。ところがイタイは死んだとしてもダビデに付いて行くと誓います。誓いがなされたのではどうしようもありません。ですから、ダビデはイタイを一緒に連れて行くことにしました。イタイは部下と子どもを連れて亡命していたので、その者たちも一緒に逃げることとなりました。契約的な有機体は一緒になって動くものだからです。

【15:23】
『この民がみな進んで行くとき、国中は大きな声をあげて泣いた。』
 ダビデたちが逃げる際、イスラエルの人々は大いに泣いて嘆きました。王子が王と国にクーデターを起こすという前代未聞の悲劇が起きたのです。こうであればどうして泣かずにいられたでしょうか。例えば、こういうことはあまり考えたくありませんが、イギリスの王子が王と国に対してクーデターを起こし、自分がすぐさま王の座に就こうとすればどうでしょうか。このようになればイギリス国民だけでなく外国人である私たち日本人も嘆かずにはいられないはずです。

『王はキデロン川を渡り、この民もみな、荒野のほうへ渡って行った。』
 エルサレムから離れたダビデは川を渡り、荒野へと移りました。この時のダビデが目的としていたのは、自分と民をアブシャロムの危険から遠ざけることです。ですから、アブシャロムに襲われないような場所へと行く必要があったのです。

【15:24】
『ツァドクも、すべてのレビ人といっしょに、神の契約の箱をかついでいたが、神の箱をそこに降ろした。エブヤタルも来て、民が全部、町から出て行ってしまうまでいた。』
 この時には、祭司であった『ツァドク』も(Ⅱサムエル8:17)、ダビデと一緒に逃げていました。ツァドクは契約の箱を担いでいましたが、ダビデがエルサレムから逃げるので、契約の箱も持ち運ばれたのです。というのもダビデは神の僕でしたから、ダビデは契約の箱と共にいるべきだったからです。ですから、神の箱がエルサレムから持ち運ばれたのは、何も不思議ではありませんでした。この箱はレビ人により担がれていました。律法はレビ人を担ぐ者として定めているからです。また、この時には『エブヤタル』も一緒に来ていました。このエブヤタルは、サウルが祭司たちを虐殺した際、神の御恵みにより生き延びることが出来た祭司です(Ⅰサムエル22:20~23)。このエブヤタルの子『アヒメレク』は祭司の職に就いていました(Ⅱサムエル8:17)。エブヤタルは、人々がエルサレムから脱出するまで、箱の置かれた場所にずっといました。

【15:25~26】
『王はツァドクに言った。「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない。』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」』
 ダビデは、エルサレムから運ばれた神の箱を、エルサレムに戻すよう命じます。これは合理的な判断によりました。何故なら、神の箱が逃げているダビデと共に運ばれても、ダビデが神の御心に適わなければ、結局は神の箱と一緒にいられなくなるからです。しかし、ダビデが主の御恵みをいただけるならば、たとえ箱がエルサレムに戻されても、やがてダビデは箱の場所へと引き戻されることになるだろうからです。この通り、ダビデは神の御心を全てにおいて中心としていました。26節目で『もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない。』と言われるなら』と言われたのは、ダビデが犯したあの極悪の罪を意識したものだと思われます。ダビデは自分が犯した極悪のため、このような悲劇が起きたことを間違いなく悟っていたはずです。ですから、もし神から見放されたとしても仕方がないという思いを持っていたはずです。確かにダビデはとてつもなく大きな罪を犯したのですから、神の御心に適わなくても文句を言えませんでした。しかし、ダビデはもう悔い改めていたので、神の御心に適っていました。

【15:27~29】
『王は祭司ツァドクにまた言った。「先見者よ。あなたは安心して町に帰りなさい。あなたがたのふたりの子、あなたの子アヒマアツとエブヤタルの子ヨナタンも、あなたがたといっしょに。よく覚えていてもらいたい。私は、あなたがたから知らせのことばが来るまで荒野の草原で、しばらく待とう。」そこで、ツァドクとエブヤタルは神の箱をエルサレムに持ち帰り、そこにとどまっていた。』
 ダビデはまたツァドクおよびエブヤタルが子どもを連れてエルサレムに戻るよう命じます。ツァドクたちはエルサレムに帰ったら、持ち帰った箱と共にそこに居続けなければなりません。これはエルサレムからアブシャロムの危険が去った場合、ダビデに報告をさせるためです。もしエルサレムが安全になったとすれば、ツァドクがダビデに報告するので、ダビデはエルサレムに帰宅できます。しかし、危険が去らなければ報告はないままです。ダビデは彼らに対して『安心して町に帰りなさい。』と言います。これはツァドクたちがエルサレムにいても守られると思ったからです。もしツァドクたちがエルサレムに戻ってから、サウルがかつて行なったようにアブシャロムから虐殺されるとすれば、ダビデはこのようなことを言えなかったはずです。こうして彼らは箱を持ってエルサレムに帰りました。ツァドクたちが帰る際は、箱を持ち帰ったのですから、他にも多くレビ人たちが付いて行ったはずです。何故なら、箱を担いで持ち帰るのですから、それを担ぐため多かれ少なかれレビ人たちがいたと考えるのが自然だからです。

 27節目でダビデはツァドクを『先見者』と呼んでいますが、この時代では預言者をこのように呼んでいました(Ⅰサムエル9:9)。このことからツァドクは祭司だけでなく預言者でもあったことが分かります。後の時代になると、預言者は「預言者」と呼ばれるようになり、もう「先見者」とは呼ばれなくなります。

【15:30】
『ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その顔をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、顔をおおい、泣きながら登った。』
 『ダビデはオリーブ山の坂を登った』のですが、この山の頂上には礼拝する場所がありました(Ⅱサムエル15:32)。この山はエルサレムの東にあり、キリストもよく登っておられました。この山は綺麗な場所であり、そこからはエルサレムがよく見渡せました。ダビデはこの山に登る際、泣いていましたが、この時の悲しみはどれだけ大きかったことでしょうか。またダビデは『その顔をおお』っていましたが、これは悲しさや悩ましさを示しています。『はだしで登った』のは何故なのでしょうか。これはダビデがアブシャロムの悪を忌避していたということなのでしょうか。というのも、主は福音を受け入れない不信仰な町を離れる際は、自分の足から塵を払い落とせと福音書で言われたからです。いや、これはアブシャロムの悪を忌避したというより、寧ろ恥をかかされたことを示しているのでしょう。何故なら、律法において靴を脱がされ裸足になるのは、恥をかかされることだからです(申命記25:5~10)。ダビデと一緒にいた民も、ダビデに倣い、オリーブ山に『頭をおおい、泣きながら登』りました。民の場合は、オリーブ山に裸足で登ったとはっきり書かれていません。もし民のほうは裸足になっていなかったとすれば、それはアブシャロムから恥をかかされたのがダビデ一人だったからなのでしょう。

【15:31】
『ダビデは、「アヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担している。」という知らせを受けたが、そのとき、ダビデは言った。「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。」』
 ダビデは、アヒトフェルの謀反について知らされました。アヒトフェルは国家の重要な人物です。ダビデとも決して遠くはない関係を持っていたはずです。そのような者が裏切ったのですから、ダビデには怒りと悲しみと動揺があったはずです。近い関係にある者が裏切るのは大きなショックを齎すものだからです。関係の度合いが近ければ近いほど、そうです。ダビデはアブシャロムの計略が上手に成し遂げられないよう望んでいました。もしアヒトフェルが巧みな助言をアブシャロムにしたならば、アブシャロムの計略が上手に成し遂げられてしまいかねません。ですから、ダビデは神にアヒトフェルの助言を狂わせて下さるよう願い求めます。

【15:32~37】
『ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来た、ちょうどその時、アルキ人フシャイが上着を裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来た。ダビデは彼に言った。「もしあなたが、私といっしょに行くなら、あなたは私の重荷になる。しかしもし、あなたが町に戻って、アブシャロムに、『王よ。私はあなたのしもべになります。これまであなたの父上のしもべであったように、今、私はあなたのしもべになります。』と言うなら、あなたは、私のために、アヒトフェルの助言を打ちこわすことになる。あそこには祭司のツァドクとエブヤタルも、あなたといっしょにいるではないか。あなたは王の家から聞くことは何でも、祭司のツァドクとエブヤタルに告げなければならない。それにあそこには、彼らのふたりの息子、ツァドクの子アヒマアツとエブヤタルの子ヨナタンがいる。彼らをよこして、あなたがたが聞いたことを残らず私に伝えてくれ。」それで、ダビデの友フシャイは町へ帰った。そのころ、アブシャロムもエルサレムに着いた。』
 ダビデがオリーブ山に登ったのは、その山頂で神を礼拝するためだったのでしょう。悩ましい状況の時であったとしても、神への礼拝を欠かすべきではないからです。

 ダビデがその山頂に行くと、ダビデの友である『アルキ人フシャイ』がダビデのもとにやって来ました。この時のエルサレムは緊急事態でしたから、フシャイの様子はいかにも悲惨な状況を示すものでした。ダビデはこのフシャイが共にいるならば重荷であると言います。状況が悪いと友だからこそかえって負担になるという場合は珍しくありません。ダビデは、フシャイが王の重荷になるというより、寧ろ『アヒトフェルの助言を打ちこわす』ようにしてほしいと求めます。ダビデはフシャイがあたかもアブシャロムに寝返ったかのように振る舞うことを望みました。エルサレムには『祭司のツァドクとエブヤタル』も帰ることになりました。祭司たちがエルサレムにいて大丈夫であれば、アブシャロムに寝返ったかのように振る舞うフシャイも大丈夫であったはずです。またエルサレムにはツァドクとエブヤタルの子も帰ることになりました。フシャイはダビデ王家から聞くことをツァドクとエブヤタルに告げ、それをツァドクとエブヤタルの子によりダビデにも告げるよう、ここでダビデから求められました。このようにすればツァドクとエブヤタルもダビデも状況をよく知れるからです。フシャイはダビデの求めを拒んだりせず、言われた通りエルサレムに戻ります。アブシャロムもヘブロンからエルサレムに着きました。

【16:1~2】
『ダビデは山の頂から少し下った。見ると、メフィボシェテに仕える若い者ツィバが、王を迎えに来ていた。彼は、鞍を置いた一くびきのろばに、パン二百個、干しぶどう百ふさ、夏のくだもの百個、ぶどう酒一袋を載せていた。王はツィバに尋ねた。「これらは何のためか。」ツィバは答えた。「二頭のろばは王の家族がお乗りになるため、パンと夏のくだものは若い者たちが食べるため、ぶどう酒は荒野で疲れた者が飲むためです。」』
 ダビデはオリーブ山の頂上から少し降ります。様子を確認するためだったのか、ただ気分に動かされるまま降りたのか、降りた理由については分かりません。またダビデが礼拝を行なった後に降りたのか、それともまだ行なう前に降りたのかも、分かりません。ダビデが山から降りた詳細な理由については知らなくてもどうということはありません。山から少し降りたダビデが見ると、私たちが既に見た『メフィボシェテに仕える若い者ツィバ』が、家畜と食料と共にダビデのもとへやって来ました。ツィバが『鞍を置いた一くびきのろば』を連れて来たのは、『王の家族がお乗りになるため』でした。古代の王族はロバに乗るのが常だったからです。今の時代で皇族や王族が高級車に乗って移動するのと似ています。『パンと夏のくだもの』は『若い者』であるダビデの僕たちが食べるためでした。『ぶどう酒』は『荒野で疲れた者が飲むため』でした。これは葡萄酒が人の心を元気付けるからです。このように悲惨な状況の際は、心持ちが重要な意味を持つのです。この通り、正しい者は神から養われるので飢えることがありません。『主は正しい者を決して飢えさせない。』と書かれている通りです。しかし、悪い者は飢えるようにもなります。何故なら、悪い者は神に喜ばれていないからです。

【16:3~4】
『王は言った。「あなたの主人の息子はどこにいるか。」ツィバは王に言った。「今、エルサレムにおられます。あの人は、『きょう、イスラエルの家は、私の父の王国を私に返してくれる。』と言っていました。」すると王はツィバに言った。「メフィボシェテのものはみな、今、あなたのものだ。」ツィバが言った。「王さま。あなたのご好意にあずかることができますように、伏してお願いいたします。」』
 ダビデは、メフィボシェテを心にかけていたので、ツィバにメフィボシェテがどこにいるのか尋ねます。するとツィバはメフィボシェテが『エルサレムにおられます。』と答えます。ダビデはメフィボシェテがどうしてエルサレムから自分のもとに来ないのか疑問を感じていました(Ⅱサムエル19:25)。このツィバは、メフィボシェテが『きょう、イスラエルの家は、私の父の王国を私に返してくれる。』と言ったことをダビデに報告します。メフィボシェテがこう言ったのはダビデを蔑ろにすることでした。これは静かなクーデターだと言えます。このようなことをメフィボシェテは言うべきでありませんでした。すると、ダビデはメフィボシェテの所有物が全てツィバの所有物になると言います。つまり、ダビデはメフィボシェテに与えた地所などを取り上げ、ツィバに与えたのです。ダビデがこうしたのは当然でした。メフィボシェテはダビデから極めて大きい恩恵を受けたのに、そのように良くしてくれたダビデを全く蔑ろにしたからです。このように言われたツィバは、『王さま。あなたのご好意にあずかることができますように、伏してお願いいたします。』と言ってダビデの好意を受けられるよう願い求めます。つまり、ツィバはダビデに「メフィボシェテのことで報告したのですから私を良く取り扱っていただきたいと思います。」と言ったわけです。

【16:5】
『ダビデ王がバフリムまで来ると、ちょうど、サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。』
 暫くすると、その名をシムイという『サウルの家の一族のひとり』が呪いながらダビデの前に現われました。ダビデがシムイから呪われたのは、ダビデが惨めな状況に陥っていたからです。人は、精神的にであれ外面においてであれ、弱々しくなると、攻撃する者から狙われ易くなるものなのです。学校などで気弱ないじめられっ子がいじめる者からいじめられるのは、これの良い例でしょう。

【16:6】
『そしてダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。民と勇士たちはみな、王の右左にいた。』
 シムイは、ダビデたちに向かって愚かにも石を投げ付けます。シムイがどれだけの間石を投げていたのか、またその石がどのぐらいの大きさだったのかは、よく分かりません。シムイがダビデを呪うということでさえ既に大きな罪でした。それに加えてシムイは石を投げることさえしたのですから、彼は二重に罪を犯していたのです。シムイがこのように石を投げたのは、ダビデに死んでほしいと願っていたことの現われです。何故なら、律法において死刑の際は石を投げつけるよう命じられているからです。ダビデがこのようにされたのは、キリストを予表していたからなのでしょう。キリストも敵であるパリサイ人たちから石を投げ付けようとされたからです。『民と勇士たちはみな、王の右左にいた。』と書かれているには、単にその時の状況を示しているだけです。ダビデは王でしたから人々の真中にいるのが自然でした。

【16:7~8】
『シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから。」』
 この箇所ではシムイが吐いたふざけた呪いの言葉がどのようだったか書かれています。シムイがこのように言ったのは冒涜的でした。何故なら、ダビデは神の僕であって、そのようなダビデをシムイは呪ったのだからです。まずシムイは『出て行け、出て行け。』と言ってダビデを呪います。シムイはダビデがどこから出て行くようにと言ったのでしょうか。それは恐らく3つであり、王座から、エルサレムから、この地上から、でしょう。シムイが『出て行け、出て行け。』と繰り返して言ったのは、ダビデに対する敵意の大きさがよく示されています。

 またシムイはダビデを『血まみれの男』と言って非難しています。確かにダビデは敵の人間であれ、仲間すなわちウリヤであれ、実に多くの人間から血を流させました。ダビデは多くの人を戦場で殺したのですから、実際に血まみれになったことは間違いありません。このため、シムイはダビデが『よこしまな者』であるとも言います。これは『ベリアルの者』と直訳できますが、ベリアルとは要するにサタンのことですから、シムイはこれ以上ない強烈な非難をしていることが分かります。シムイがダビデを神から全く遺棄された者だと思っていたのは間違いないと見ていいでしょう。

 シムイはダビデをこのように邪悪な者だと思っていましたから、この時のダビデが神から裁かれていると理解していました。確かにダビデのこの時の状況と、ダビデがこれまでにしてきた殺人行為を考えるならば、このように理解してしまう人も少なからずいたかもしれません。このためシムイは邪悪だと認識しているダビデがこれから『わざわいに会う』と言っています。しかし、シムイがこのように言ったのは間違いでした。確かにこの時のダビデは惨めな状況に陥っていましたが、神はダビデを悪者として裁いておられたのでなく、御自分の子どもとして懲らしめておられたに過ぎなかったからです。

 この通り、シムイは正しい人を正しくないと断罪して呪いました。このように誤った断罪をするケースは今でも絶えないものです。宗教改革時代でもこのようなことがありました。カトリックはルターとカルヴァンを正しくない者として断罪したのです。この2人の改革者は正しかったのですが、カトリックが何も分かっていないだけでした。キリストもパリサイ人たちからとんでもない者だと見做されましたが、とんでもない者はパリサイ人のほうでした。正しくない者が正しい者を正しくないと言っても、その判定は正しくありません。ですから、誰かがある人を正しくないと判定したとしても、その判定が必ずしも真実であるわけではありません。シムイのような過ちを犯す人は世の中に数多くいます。しかし、シムイのような人たちは、自分こそが正しいとすっかり思い込んでおり、まさか自分の非難している者が正しいなどとは少しも思いません。自分のほうが間違っているので、正しい人が正しいと分からないのです。これを例えるならば、ばい菌が石鹸を敵視して邪悪な存在だと思うようなものです。当然ながら、石鹸は清い存在なのであり、石鹸を邪悪な存在だと見做すばい菌こそ邪悪な存在なのです。ですから、シムイのように正しい者を邪悪視する者はどうしようもなく、誠に悲惨であると言わなければなりません。