【Ⅱサムエル記16:9~17:22】(2023/03/19)


【16:9】
『すると、ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください。」』
 この時には『ツェルヤの子アビシャイ』も王と共に逃げていました。このアビシャイは、シムイが吐いた呪いの言葉を聞いて憤ります。何故なら、『王さまをのろってよいもの』ではないからです。神は律法の中でこう言われました。『民の上に立つ者をのろってはならない。』(出エジプト22章28節)律法にこう書かれていますから、アビシャイがシムイに怒ったのはおかしくありませんでした。このため、アビシャイはシムイの『首をはねさせてください。』とダビデに願い求めます。つまり、王を呪った罪に対する死刑です。シムイは、律法を持たない異邦人の国であっても、死刑に値すると見做されたことでしょう。自然に考えても王を呪うのが死刑に値するのは明らかだからです。アビシャイはここでシムイを『死に犬』と言って軽蔑しています。これは既に王位を持つ一族として滅びたサウル一家を、死んで惨めになった犬として例えているのです。このシムイは『サウルの家の一族のひとり』(Ⅱサムエル16章5節)でした。この表現はメフィボシェテも使っていました(Ⅱサムエル9:8)。

【16:10~11】
『王は言った。「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。」ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。」』
 ダビデはこの出来事が自分にだけ関わることだと言って、アビシャイの求めを退けます。ここでダビデが『ツェルヤの子らよ』と言っているのは、アビシャイだけでなくアビシャイの家来たちもシムイを死なせようと願っていたからなのでしょう。ダビデは自分の罪ゆえにシムイが敵として現われたことを知っていたはずです。すなわち、ダビデが大きな罪を犯したので、神は懲らしめとしてシムイにダビデを呪わせたのです。神がシムイに呪うよう命じておられたのであれば、ダビデはどうすることもできません。またダビデの子であるアブシャロムでさえダビデを殺そうと狙っていたのであれば、ダビデの子でないシムイがダビデを殺そうと狙うのは尚のことでした(11節)。このためダビデは『ほうっておきなさい。』と言ってアビシャイたちを抑制させました。ところで10節目で『主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われた』と書かれているのは、実際に主がシムイに聞こえる形で命じられたというわけではなかったはずです。何故なら、神は基本的に悪い者に対して直接的に語りかけることをなさらないからです。実際、聖書に神がシムイに語りかけておられる出来事は書かれていませんし、ダビデもシムイに語りかける神の言葉を聞いたのではなかったはずです。ダビデが言っているのは、つまり神の命令に服するようにしてシムイが動かされていたという意味でしょう。

 もし私たちに神の命令により何か苦難が襲いかかったとすれば、私たちもダビデと同様、それを神の命令によると思って静かに耐え忍ぶべきでしょう。その苦難を退けようとして何かしたとしても、状況が変わることはないからです。神がそうされたからこそ、そうなったのです。ですから、私たちが何かしても徒労に終わるだけです。無駄な労力をあえて好む人がどこかにいるのでしょうか。もしダビデのように考えることができれば、私たちは苦難の中にあっても、どれだけ気持ちが楽になるでしょうか。ダビデにしても、シムイによる苦難が神の命じられたことだと考えたからこそ、邪悪な呪いを吐かれても穏やかに忍耐することができたのです。もしダビデがこのように考えなければ、シムイを律法の違反者として断罪し、アビシャイの求め通りシムイの首をはねさせていた可能性はかなり高いのです。ルター時代のドイツ農民プロテスタント教徒も領主が取り立てる厳しい重税に悩まされるという苦難を味わっていました。もし彼らがその重税を神による試練として考えたとすれば―ルターはこのように考えていました―、重税を取られても穏やかでいられたかもしれません。しかし彼らは耐え忍べというルターの忠告に聞き従わず、ダビデのように考えなかったので、領主の重税に我慢することができませんでした。もし私たちがダビデのように考えるならば、大きな益が2つあります。その一つ目は、苦難の中にあってもストレスをそこまで溜めないで済むということです。二つ目は、ストレスを溜めないので、怒り狂って大きな悪事を犯す危険性が非常に下がるということです。

【16:12】
『たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」』
 シムイは、ダビデを神から罰された呪われし悪者として断罪しました。しかも、強烈にです。しかし、そのように断罪されたダビデの良心には安らぎがありました。すなわち、ダビデは自分が神から呪われていないという確信を強く持っていました。ですから、ダビデは神がダビデの心を御覧になられ、この度の呪いに代えて幸せを与えて下さるだろうと言っています。これは神がバランスを取られる御方だからです。ダビデはシムイの呪いという不幸により精神的な打撃を受けました。神はこのようなダビデにやがて幸せをもって穴埋めをして下さるというわけです。神がこのようにバランスを取られるのは、どこでも、いつの時代でも、そうです。私たちに起こる出来事をしっかり観察してみるといいでしょう。そうすれば確かにバランスが取られていると分かるはずです。何か良いことが起きれば悪いことも起き、何か悪いことが起きれば良いことも起こるのです。

【16:13~14】
『ダビデと彼の部下たちは道を進んで行った。シムイは、山の中腹をダビデと平行して歩きながら、のろったり、石を投げたり、ちりをかけたりしていた。王も、王とともに行った民もみな、疲れたので、そこでひと息ついた。』
 こうしてダビデたちは、逃げるため道を進んで行きました。この時にはシムイも横に歩きながらしつこく付いて来ました。彼はダビデに対し『のろったり、石を投げたり、ちりをかけたりしていた』のです。『のろったり、石を投げたり』することであれば既にもう書かれていましたが、『ちりをかけたりしていた』という行為はここで初めて書かれています。シムイが塵をダビデにかけたのは、ダビデに対する軽蔑を示しています。何故なら、『ちり』とは無価値で取るに足らないものだからです。このようにしてシムイは3重もの罪を犯していましたが、自分自身では何か悪いことをしていると思っていなかったはずです。暫くすると、ダビデたちは疲労のため休みます。この時のダビデたちは全力で逃げていたのでしょうか。それとも女や子どもたちの歩みに合わせてゆっくりと逃げていたのでしょうか。どちらかだったは分かりません。いずれにせよダビデたちは何事にも限度を持つ人間ですから、疲れてしまいました。

【16:15】
『アブシャロムとすべての民、イスラエル人はエルサレムにはいった。アヒトフェルもいっしょであった。』
 アブシャロムたちはエルサレムに戻りましたが、アブシャロムに寝返ったアヒトフェルもアブシャロムと一緒に戻りました。この時にはもうダビデたちがエルサレムから逃げ去った後でした。もしダビデたちがまだいたとすれば一体どうなっていたでしょうか。アブシャロムは、ダビデを捕えるか、殺すか、追い出すかしていたでしょう。ダビデはアブシャロムが『私のいのちをねらっている』(Ⅱサムエル16:11)と言いましたから、恐らく捕えられてからか、もしくは即座に、殺されていた可能性が高かったでしょう。

【16:16~19】
『ダビデの友アルキ人フシャイがアブシャロムのところに来たとき、フシャイはアブシャロムに言った。「王さま。ばんざい。王さま。ばんざい。」アブシャロムはフシャイに言った。「これが、あなたの友への忠誠のあらわれなのか。なぜ、あなたは、あなたの友といっしょに行かなかったのか。」フシャイはアブシャロムに答えた。「いいえ、主と、この民、イスラエルのすべての人々とが選んだ方に私はつき、その方といっしょにいたいのです。また、私はだれに仕えるべきでしょう。私の友の子に仕えるべきではありませんか。私はあなたの父上に仕えたように、あなたにもお仕えいたします。」』
 フシャイがアブシャロムのもとに行くと、『王さま。ばんざい。王さま。ばんざい。』と言って忠誠を誓う振りをします。フシャイが『王さま』『ばんざい』という言葉を繰り返したのは、自分が本当に忠誠を抱いていると示すためでした。しかし、実際のところフシャイは心でアブシャロムに忠誠を誓っていませんでした。人の心は外部から隠れているので、このように欺くことが可能です。そのためアブシャロムはフシャイが欺いていることに気付けませんでした。

 いきなりフシャイがこのように言ったので、アブシャロムはフシャイのことを少し不思議に思いました。というのも、それまでダビデに仕えていた者がいきなりダビデの子に鞍替えするというのは、驚くべきことだからです。これでは一体どのようになっているのかと不思議がってもおかしくありません。それゆえ、アブシャロムはフシャイに一体どうしてダビデから離反したのか尋ねます。

 フシャイは不思議がるアブシャロムに対し、本当にダビデから離反してアブシャロムに寝返ったということを分からせようとします。フシャイは、アブシャロムが神から新しい王として任命されたとさえ言って欺いています。当然ながらフシャイは神がアブシャロムを任命していないことぐらい百も承知でした。このような欺きは神を利用しているかのようにも感じられますが、フシャイは神と神に立てられたダビデのためこのように欺いたのですから、問題はなかったはずです。またフシャイは命懸けでアブシャロムを欺いていました。ですから、神もこのような欺きを断罪することはなかったと思われます。ここでフシャイはアブシャロムと『いっしょにいたい』と言っていますが、これは嘘でした。フシャイが一緒にいたいと思っていたのはダビデだったからです。またフシャイは『私の友の子に仕えるべきではありませんか。』とも言っていますが、これも嘘でした。フシャイが仕えるべきだと思っていたのはダビデだったからです。フシャイがこのように欺いたのは全てダビデのためでした。フシャイはもしダビデのためであれば、ダビデを抹殺するとさえ言っていたでしょう。

【16:20~22】
『それで、アブシャロムはアヒトフェルに言った。「あなたがたは相談して、われわれはどうしたらよいか、意見を述べなさい。」アヒトフェルはアブシャロムに言った。「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにおはいりください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう。」こうしてアブシャロムのために屋上に天幕が張られ、アブシャロムは全イスラエルの目の前で、父のそばめたちのところにはいった。』
 王は往々にして臣下や知者たちの意見を求めるものですが、これから王になろうとしていたアブシャロムも、『議官』(Ⅱサムエル15章12節)だったアヒトフェルにどうすればいいか意見を求めました。すると、この裏切り者は、アブシャロムが王宮に残されたダビデのそばめを犯せばいいと勧めます。何故なら、そのようにすればダビデを嫌っているアブシャロム派の者たちは、アブシャロムをより信頼するようになるからです。そうなればアブシャロム派の者たちは『勇気を出す』こととなります。アブシャロムがこのような悪事をするのは非常に酷いことでした。しかし、謀反の戦術としては非常に効果的だったはずです。このように勧めたアヒトフェルはマキャベリのようです。

 アブシャロムはアヒトフェルの案が良いと思えたので、アヒトフェルの言った通り、ダビデのそばめたちを犯すことにしました。その数は『十人』(Ⅱサムエル15章16節)でした。ここで『全イスラエル』と書かれているのは、イスラエルの諸部族に属する多くのイスラエル人です。多くの部族がアブシャロム派となっていたのです。彼らの『目の前で』アブシャロムがそばめたちを犯したのは、人々の心を強く自分になびかせるためでした。実際にダビデの憎むことが行なわれているシーンをその目で見るならば、それは大きなインパクトとなり、民たちがアブシャロムに心酔することにもなります。この時に『天幕が張られ』たのは、その中で事を行なうためでした。事が事ですから天幕の中で行なうべきだったのです。その天幕の中にアブシャロム派の者たちが多く入り、事が行なわれるのを見たわけです。アブシャロムが自分自身からこのような行為をするつもりはなかったはずです。彼はただアヒトフェルの案に従い、戦略的に事を行なっていただけであるはずです。

 アブシャロムがこのような愚行をしたのは前代未聞でした。ルベンでさえ犯した父のそばめは一人だけでした(創世記35:22)。アブシャロムはその10倍だったのです。このような行為はダビデにとって悲劇だったはずです。しかし、ダビデにとって思いがけずこのような出来事が起きたのではなかったはずです。何故なら、神はやがてダビデのそばめが犯されるであろうと予め預言しておられたからです(Ⅱサムエル12:11)。このようにして神はダビデの悪事を懲らしめられました。これはダビデにとって自業自得だったわけです。もしダビデがウリヤの妻を奪い取っていなければ、ダビデは懲らしめられる理由を持ちませんでしたから、このような悲劇は恐らく起きていなかったでしょう。

【16:23】
『当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた。』
 アヒトフェルがアブシャロムに進言する助言は実に知的でした。その内容は完璧でした。このため、その助言はあたかも『人が神のことばを伺って得ることばのよう』でした。ダビデでさえそのように感じたのです。ダビデ以外のイスラエル人もそのように感じたでしょう。しかし、実際にアヒトフェルは神へと伺いを立てていなかったはずです。ただ神に伺いを立てていたかのような助言をしたというだけです。ダビデは先に『アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。』(Ⅱサムエル15章31節)と神に願い求めました。しかし、今はまだこの願いが聞き届けられませんでした。アヒトフェルの助言は愚かさからかけ離れていたからです。これは神がアヒトフェルに巧みな助言をさせることで、ダビデに懲らしめを与えるためでした。実際、アヒトフェルの助言によりそばめたちが犯されることとなり、ダビデは神から懲らしめを受けたのです。

【17:1~4】
『アヒトフェルはさらにアブシャロムに言った。「私に一万二千人を選ばせてください。私は今夜、ダビデのあとを追って出発し、彼を襲います。ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。私が、彼を恐れさせれば、彼といっしょにいるすべての民は逃げましょう。私は王だけを打ち殺します。私はすべての民をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、あなたが求めているのはただひとりだけですから、民はみな、穏やかになるでしょう。」このことばはアブシャロムとイスラエルの全長老の気に入った。』
 アヒトフェルは更なる戦略案をアブシャロムに告げます。その戦略案はまたもや忌まわしい内容でした。アヒトフェルは、もし自分に軍勢が与えられるならばダビデを殺してみせる、と約束します。もしアヒトフェルが軍勢を率いてダビデのもとに行けば、『彼といっしょにいるすべての民は逃げ』るだろうとアヒトフェルは思いました。そうしたらアヒトフェルは1人になったダビデを殺すつもりでした。もしダビデをこのようにして殺すならば、全ての決着がつきました。何故なら、ダビデという頭が死ぬならば、肢体であるダビデ派の人々はどうしようもなくなるからです。アヒトフェルはダビデを殺してから、頭だけであろうと全身であろうと、ダビデの死体をアブシャロムのもとに持って行ったことでしょう。そのようにすればアブシャロムは喜ぶからです。3節目で言われている通り、アブシャロムはダビデの命を狙っていました。またダビデの死体が運ばれるならば、『民はみな、穏やかになる』はずでした。何故なら、もしダビデが殺されたとすれば、アブシャロム派の人々はアブシャロムが勝利したことを喜ぶだろうからです。アヒトフェルはダビデを殺す自信がありました。というのは『ダビデは疲れて気力を失ってい』たからです。アヒトフェルが提案したこのような戦略は、実に邪悪でした。何故なら、彼は主に立てられた王であるダビデを殺そうとしたからです。ここにダビデとアヒトフェルの明白な違いがありました。ダビデの場合、アヒトフェルと異なり、主に立てられた王であるサウルを殺そうとはしなかったからです(Ⅰサムエル24:6、26:11)。これはダビデが正しい者であり、アヒトフェルは呪われていたからです。

 この時にアヒトフェルは『一万二千人』の兵士たちを求めました。アヒトフェルはこれだけ兵士がいればダビデを殺せるだろうと考えたのです。つまり、彼は数の多さに頼りました。この『一万二千人』という数は、実際の数であるものの、そこには象徴性が含まれています。何故なら、12000とは「12かける1000」として分解できるからです。聖書において「12」は選びを意味し、「1000」は完全であることを意味します。つまり、アヒトフェルが『一万二千人』の兵士を求めたのは、彼が完璧な軍団のため兵士たちを完全に選別するということです。

 アヒトフェルの助言は、ダビデを邪魔だと感じていた『アブシャロムとイスラエルの全長老の気に入』られました。この時にアブシャロムのもとにいたのはアブシャロム派の人々だけでした。ですから、そこにいた全員が例外なくアヒトフェルの助言を歓迎し喜んだはずです。反逆者たちは巧みな悪の言葉によく耳を傾けるものなのです。

【17:5~6】
『しかしアブシャロムは言った。「アルキ人フシャイを呼び出し、彼の言うことも聞いてみよう。」フシャイがアブシャロムのところに来ると、アブシャロムは彼に次のように言った。「アヒトフェルはこのように言ったが、われわれは彼のことばに従ってよいものだろうか。もしいけなければ、あなたの意見を述べてみなさい。」』
 アブシャロムはアヒトフェルの案を良いと思ったものの、他の案も聞いてみたいと思いました。そこでアブシャロムはフシャイを呼び出し、フシャイの意見を聞きます。アヒトフェルの意見が駄目だったわけではありません。ただアブシャロムは、他の人による案のほうがより良いかもしれないと考えたのです。ここでアブシャロムがフシャイから意見を聞こうとしているのは、もうアブシャロムがフシャイをダビデの裏切り者として受け入れていたからです。何故なら、もうフシャイを怪しんでいないからこそ、このように意見を求めたのだからです。もしまだ怪しんでいたとすれば、フシャイがダビデに有利な案を告げることは間違いないと思ったはずですから、このように意見を求めたりはしなかったでしょう。アブシャロムは忌まわしい謀反を企てていましたが、群れを運営するという観点から言えば、このように複数の意見を求めたのは正しいことでした。もし1人だけの意見に頼るならば、失敗したり不十分にしか達成できない可能性が高まります。ですから、複数の人の意見を聞き、それらの意見を比較・検討するのは重要なのです。ソロモンも箴言の中でこう言っています。『密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する。』(箴言15章22節)

【17:7~13】
『するとフシャイはアブシャロムに言った。「このたびアヒトフェルの立てたはかりごとは良くありません。」フシャイはさらに言った。「あなたは父上とその部下が戦士であることをご存じです。しかも彼らは、野で子を奪われた雌熊のように気が荒くなっています。また、あなたの父上は戦いに慣れた方ですから、民といっしょには夜を過ごさないでしょう。きっと今、ほら穴か、どこか、そんな所に隠れておられましょう。もし、民のある者が最初に倒れたら、それを聞く者は、『アブシャロムに従う民のうちに打たれた者が出た。』と言うでしょう。そうなると、たとい、獅子のような心を持つ力ある者でも、気がくじけます。全イスラエルは、あなたの父上が勇士であり、彼に従う者が力ある者であるのをよく知っています。私のはかりごとはこうです。全イスラエルをダンからベエル・シェバに至るまで、海辺の砂のように数多くあなたのところに集めて、あなた自身が戦いに出られることです。われわれは、彼を見つけしだい、その場で彼を攻め、露が地面に降りるように彼を襲い、彼や、共にいるすべての兵士たちを、ひとりも生かしておかないのです。もし彼がさらにどこかの町にはいるなら、全イスラエルでその町に綱をかけ、その町を川まで引きずって行って、そこに一つの石ころも残らないようにしましょう。」』
 呼び出されたフシャイは、イスラエルの新しい王として見做されていたアブシャロムから意見を求められたのですから、しっかりと対応し、はっきりしたことを言わないわけにはいきませんでした。「申し訳ありませんが、この件についてはノーコメントとさせていただきたく思います。」などとは決して言えませんでした。アブシャロムの呼び出しに応じないことも出来ませんでした。このように呼び出されたフシャイは、まずアヒトフェルの案を退けます。それというのもアヒトフェルの案は良いと思えたものの、実際の状況をあまり弁えていなかったからです。アヒトフェルは実際にダビデと一緒にいなかったので、これは当然のことでした。しかし、フシャイの場合はダビデと会ったので、ダビデが立っている状況を多かれ少なかれ弁えていました。このため、フシャイはアヒトフェルの案が不十分な内容であると分かったのです。フシャイは、もしアヒトフェルが軍勢を率いて戦いに向かっても、上手に行かないと言います。ダビデは『戦いに慣れた方ですから、民といっしょには夜を過ごさない』はずでした。それは味方の反逆を警戒するためです。それゆえ、ダビデは『ほら穴か、どこか、そんな所に隠れて』いたでしょうが、こうであれば、そもそもダビデを捜し出すことさえ難しいのです。しかも、もしアヒトフェルの軍勢で殺される兵士が出たならば、軍勢全体の士気が崩れることになります。何故なら、イスラエル人であればダビデが『勇士であり、彼に従う者が力ある者であるのをよく知って』いたからです。このようなことをフシャイは真っ直ぐ語っています。これらの言葉に偽りや誇張はありませんでした。フシャイがこのように真面目に語ったのは、自分があくまでもアブシャロムの味方であると思い続けさせるためでした。

 このようにアヒトフェルの案を退けたフシャイは、更に良い自分の案として、とにかく多くの軍勢を集めてダビデとダビデに属する者たちを一斉攻撃するべきだと言いました。誰かの案を厳しく否定するものの、否定するだけで代替案を提示しない人は、世の中に珍しくありません。しかし、フシャイは知性と思考力のある人だったので、アヒトフェルの案に代わる案を提示することができました。フシャイが兵士を集める地域として指定した『ダンからベエル・シェバに至るまで』とは、つまりイスラエルの全域です。『海辺の砂』と言われたのは数の多さを示す象徴表現であり、聖書ではここ以外の箇所でも用いられている箇所がある表現です。またフシャイは、アヒトフェルが自分自身で戦いに行くと言ったのとは異なり、アブシャロム『自身が戦いに出られる』べきだと言います。これは軍勢に被害が出た際、アブシャロムが兵士たちを鼓舞することにより、大混乱や絶望の発生を防ぐためです。戦場における王の鼓舞は、兵士たちに大きな力と希望と忍耐を齎すものなのです。ですから、アヒトフェルだけが出陣するというのは良い案ではありませんでした。アヒトフェルはただダビデ一人だけを打ち殺すと言いましたが(Ⅱサムエル17:2~3)、フシャイはダビデたちをことごとく打ち殺すべきだと言います。フシャイの案のほうがかなり強烈でした。もしダビデがどこかの町に逃げたならば、フシャイはその町を『川まで引きず』ればいいと言いますが、これはつまりその町を徹底的に滅ぼすということです。つまり、ダビデを決して逃がさないため、その町ごと打ち滅ぼすということです。確かにダビデ一人だけを求めるより、このようにして町ごと一挙に滅ぼしたほうが、ダビデを打ち殺せる可能性は高かったでしょう。

 この通り、フシャイは自分がアブシャロムの僕でありダビデの敵対者であるかのように見事な振る舞いをしました。この時、この場にいた人々の中で誰が疑ったことでしょうか。フシャイがまさかダビデのためこのように見せかけの振る舞いをしていたなどと。この時のフシャイは実に良い仕事をしていました。

【17:14】
『アブシャロムとイスラエルの民はみな言った。「アルキ人フシャイのはかりごとは、アヒトフェルのはかりごとよりも良い。」これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。』
 アブシャロムとアブシャロム派のイスラエル人たちは、フシャイの案がアヒトフェルの案よりも優っていると思いました。何故なら、フシャイ案のほうが合理的・実際的であり、達成できる可能性が高いと思われたからです。机上の空論家が出す案は、実際家の案に比べると、往々にして劣るものです。ダビデと共にいなかったアヒトフェルは机上の空論家であり、ダビデと共にいたフシャイは実際家でした。アヒトフェルはそばめたちを犯せという先の案で上手く行ったのですから、恐らく今回の案もすんなりと受け入れられるだろうと思っていたはずです。ちょうどデビューアルバムが世界的な大ヒットを出したので、2ndアルバムもかなりの売上となるに違いないと思っている新鋭アーティストのようにです。しかし、この度の案は全く退けられたのですから、フシャイはかなりショックだったでしょう。ちょうど1stアルバムで2000万枚を売り上げた超新星のアーティストが、2ndアルバムではたったの1万枚ぐらいしか売れなかったかのようです。

 このようにアヒトフェルの案が退けられたのは、『主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたから』でした。神は御自分の御計画を実現させるため、アブシャロム陣営に働きかけ、そこにいる人々の心を動かされたのです。神がこうされたのはダビデをアブシャロムおよびアヒトフェルから守るためでした。そのため、神はフシャイの案が受け入れられるようにされたのです。つまり、フシャイ案が受け入れられたのはダビデに対する神の御恵みでした。もしダビデが守られるのでなければ、フシャイの案が退けられ、アヒトフェルの案が実行に移されていたでしょう。

【17:15~16】
『フシャイは祭司ツァドクとエブヤタルに言った。「アヒトフェルは、アブシャロムとイスラエルの長老たちにこれこれの助言をしたが、私は、これこれの助言をした。今、急いで人をやり、ダビデに、『今夜は荒野の草原で夜を過ごしてはいけません。ほんとうに、ぜひ、あちらへ渡って行かなければなりません。でないと、王をはじめ、いっしょにいる民全部にわざわいが降りかかるでしょう。』と告げなさい。」』
 『祭司ツァドクとエブヤタル』は息子たちを連れてもうエルサレムに帰っていました。フシャイはこの2人の祭司に、ここまで起きた出来事を知らせます。フシャイがこのように知らせたのは、この2人の祭司に知らせても、知らせたことが漏れる可能性はほとんど0%に近かったからです。もし祭司に知らせたことが漏れたとすれば、フシャイはアブシャロムに殺されかねませんから、決して知らせはしなかったはずです。フシャイは、この2人の祭司がダビデに逃げるよう伝えることを求めます。何故なら、もう間もなくアブシャロムが大軍勢を集めてダビデに襲いかかろうとしていたからです。それゆえ、フシャイは『ほんとうに、ぜひ』ダビデが逃げるよう望みました。事態はかなり危険でした。ダビデは1秒でも早く逃げなければなりません。

 こうして神はダビデをアブシャロムから守るようになさいました。これはダビデが神に見捨てられていなかったからです。ダビデはウリヤの件で大きな罪を犯したものの、神の憐れみまで失ったわけではありませんでした。ですから、ダビデの受ける苦難には限度が設けられていたのです。

【17:17】
『ヨナタンとアヒマアツはエン・ロゲルにとどまっていたが、ひとりの女奴隷が行って彼らに告げ、彼らがダビデ王に告げに行くようになっていた。これは彼らが町にはいるのを見られることのないためであった。』
 ツァドクとエブヤタルの息子である『ヨナタンとアヒマアツ』もダビデから離れていましたが、この2人の息子はエルサレムに入らず、『エン・ロゲルにとどまってい』ました。これは彼らがダビデに報告しに行く際、アブシャロム派の人に行くところを見られないためでした。もし見られたら、アブシャロムに報告され、2人は大変なことになるだろうからです。ですから、ツァドクとエブヤタルが女奴隷に知らせるべき事柄を知らせ、その女奴隷が2人の息子たちに知らせるというやり方となっていました。そのようにして息子たちはダビデのもとへ知らせに行くわけです。この『エン・ロゲル』というのは、ユダ族およびベニヤミン族の相続地における境界線にありました(ヨシュア記15:7、18:16)

【17:18~20】
『ところが、ひとりの若者が彼らを見て、アブシャロムに告げた。そこで彼らふたりは急いで去り、バフリムに住むある人の家に行った。その人の庭に井戸があったので、彼らはその中に降りた。その人の妻は、おおいを持って来て、井戸の口の上に広げ、その上に麦をまき散らしたので、だれにも知られなかった。アブシャロムの家来たちが、その女の家に来て言った。「アヒマアツとヨナタンはどこにいるのか。」女は彼らに答えた。「あの人たちは、ここを通り過ぎて川のほうへ行きました。」彼らは、捜したが見つけることができなかったのでエルサレムへ帰った。』
 残念ながら2人の息子たちは、アブシャロム派に属する『ひとりの若者』に見られ、そのことをアブシャロムに報告されてしまいます。このようなことでは、遅かれ少なかれ隠したい事柄がバレてしまうものなのです。たとえ良いことのために隠すのであっても、です。それというのも神は闇の中から光を輝き出される御方だからです。このように息子たちのことがアブシャロムに告げられたので、大変なことになりました。ですから、息子たちは『バフリムに住むある人の家』に行き、その家にある井戸へと隠れます。すると、その家の主人の妻が、アブシャロムから遣わされた家来を欺いてくれたので、2人の息子たちは助かりました。神が彼らを助けて下さったのです。もし神が助けて下さらなければ、2人の息子たちは一体どうなっていたでしょうか。間違いなく捕えられ、悲惨になっていたことは間違いありません。この箇所で欺いた女が『川』と言っているのはヨルダン川です。この女の家からヨルダン川は東にありました。ところで、この時の出来事は、ラハブが斥候たちをかくまったあの出来事と似ています。同じような出来事は繰り返されるものなのです。「二度あることは三度ある」という諺もあります。

【17:21~22】
『彼らが去って後、ふたりは井戸から上がって来て、ダビデ王に知らせに行った。彼らはダビデに行った。「さあ、急いで川を渡ってください。アヒトフェルがあなたがたに対してこれこれのはかりごとを立てたからです。」そこで、ダビデと、ダビデのもとにいたすべての者たちとは出発して、ヨルダン川を渡った。夜明けまでにヨルダン川を渡りきれなかった者はひとりもいなかった。』
 神の御恵みにより助かった2人の息子たちは、安全な状態になると、井戸から出てダビデのもとへ再び向かいます。ダビデのもとに着くと、息子たちはアヒトフェルの策略が実行されようとしているとダビデに話します。21節目を見る限り、息子たちはフシャイの策略について何も話さなかったと思われます。これは、ダビデの友であるフシャイがダビデたちを一網打尽にすればいいと言ったなどと知らせるのは、かなり強烈で動揺する可能性があったからなのかもしれません。ダビデたちはただ危険を知って逃げればそれでいいのですから、息子たちは全てをアヒトフェルの策略として纏め上げて話したと考えられます。こうしてダビデたちはヨルダン川を東のほうに渡りきりました。ダビデたちは1秒も早く東に逃れるべきでした。ヨルダン川を渡るならば、もう危険はほとんど過ぎ去ったも同然でした。何故なら、流れが激しいヨルダン川を渡るのは手間と時間がかかるからです。このようにしてダビデたちが上手く逃げられたのは、神の御恵みに他なりませんでした。ところで、ダビデのこの苦難もやはりキリストの苦難を予表しています。主も敵から狙われるという苦難をお受けになられたからです。