【Ⅱサムエル記20:20~21:17】(2023/04/23)


【20:20~21】
『ヨアブは答えて言った。「絶対にそんなことはない。のみ尽くしたり、滅ぼしたりするなど、とてもできないことだ。そうではない。実はビクリの子で、その名をシェバというエフライムの山地の出の男が、ダビデ王にそむいたのだ。この男だけを引き渡してくれたら、私はこの町から引き揚げよう。」』
 女の言葉を聞いたヨアブは、非常に驚きます。ヨアブにはイスラエルの地を滅ぼすことなど考えられなかったからです。ちょうど、カエサルがローマを滅ぼすことなど考えられなかったのと同じように。ヨアブもカエサルも純粋な愛国者だったからです。もしヨアブがイスラエルの地を滅ぼすならばそれはヨアブだと言えず、カエサルもローマを滅ぼすならばそれはカエサルだと言えませんでした。このため、ヨアブは『絶対にそんなことはない。』と言って女の言ったことを打ち消します。この打ち消しに偽りはありませんでした。ヨアブはこの女に対し、自分たちがアベルに来たのは、ただ『ダビデ王にそむいた』『シェバ』を追って来ただけであると説明します。ヨアブはアベルの町を狙ったというより、アベルの町に入ったシェバを狙っていたのです。そしてヨアブは、もしアベルの人々がこのシェバを引き渡すならば、アベルから撤退すると約束します。何故なら、もしシェバを捕らえるならば、シェバに属する者たちはもうどうしようもなくなるからです。この約束にも偽りはありませんでした。

【20:21~22】
『するとこの女はヨアブに言った。「では、その男の首を城壁の上からあなたのところに投げ落としてごらんにいれます。」この女はその知恵を用いてすべての民のところに行った。それで彼らはビクリの子シェバの首をはね、それをヨアブのもとに投げた。』
 ヨアブの話を聞いた知恵ある女は、シェバの首を切り取り、ヨアブの前に投げて渡すと約束します。すると、この女は知恵を用い、本当にシェバの首がヨアブの前へ投げ出されるようにしました。「有言実行」とは正にこのことです。彼女がこの時に用いた『知恵』がどのような内容だったのかは分かりません。ただこの知恵は神が彼女に与えられた賜物でした。何故なら、ダニエル書で言われている通り、知恵とは神のものだからです。ところで、この時に死んだシェバの首が投げられたことを、何か野蛮な行為として見做すべきではありません。というのも、死んだシェバの首をヨアブのもとへ投げるというのは、ヨアブと女の同意事項だったからです。また、シェバのような反逆者の顔は、価値なき石のごとく投げ出されるに値しました。

 こうして神から油注がれた者であり神の特別な器であり僕であったダビデに背いたシェバは、神から死の裁きを受けました。ダビデのような者に逆らうとこうなるのです。ダビデの場合、神に油注がれた王であるサウルに逆らって酷いことをしたりしませんでした。このシェバもダビデのように穏やかに振る舞っているべきでした。

【20:22】
『ヨアブが角笛を吹き鳴らしたので、人々は町から散って行って、めいめい自分の天幕へ帰った。ヨアブはエルサレムの王のところに戻った。』
 シェバの死により全て事は解決されたので、ヨアブは兵士たちを撤退させるため、『角笛を吹き鳴らし』ます。すると、アベルの町を包囲していたユダの兵士たちは解散し、それぞれ『自分の天幕へ帰』りました。ヨアブはアブシャロムを殺した際も、角笛を吹き鳴らし、兵士たちが帰るようにしました(Ⅱサムエル18:16)。そして、ヨアブはダビデに良い報告をできるので、エルサレムにいたダビデのもとへ帰りました。すなわち、イスラエルの最北部にあったアベルから150kmほど南に離れたエルサレムまで遠い距離を移動しました。

【20:23~26】
『さて、ヨアブはイスラエルの全軍の長であった。エホヤダの子ベナヤはケレテ人とペレテ人の長。アドラムは役務長官。アヒルデの子ヨシャパテは参議。シェワは書記、ツァドクとエブヤタルは祭司。ヤイル人イラもダビデの祭司であった。』
 ここではイスラエル国の重要な職務に就いている者たちが挙げられています。先に見たⅡサムエル8:16~18の箇所でも重要な職務に就いている者たちが挙げられていました。しかし、この箇所は前の箇所と幾らか人の内容が異なっています。まずヨアブが『全軍の長』であったのは先の場合と変わりません。ダビデに将軍として任じられていたアマサが死んだのですから、その後任として、再びヨアブが将軍となったのです。ダビデはどうやらヨアブが再び将軍となるのを嫌がらなかったようです。もしかしたら嫌がっていたかもしれませんが、その場合でも将軍にせざるを得なかったのでしょう。何故なら、人々がヨアブに付き従ったことから考えると(Ⅱサムエル20:13)、人々は恐らくヨアブが将軍であることを望んだだろうからです。何よりヨアブ以外で将軍に相応しい人はいなかったと思われます。エホヤダが『ケレテ人とペレテ人の長』だったのは、先の場合と変わりません(Ⅱサムエル8:18)。『役務長官』と『役務長官』だった『アドラム』は先の箇所で書かれていませんでした。『アヒルデの子ヨシャパテ』が『参議』だったのは、先の場合と同じです(Ⅱサムエル8:16)。書記は『セラヤ』(Ⅱサムエル8:17)から『シェワ』に変わっています。書記とは、議事録や公的な文書を管理する職務だったのでしょう。『ツァドク』が祭司であるのは先の場合と変わっていません。先の箇所では『アヒメレク』(Ⅱサムエル8:17)が祭司だったものの、ここの箇所ではアヒメレクの父である『エブヤタル』が祭司だと書かれています。祭司の『ヤイル人イラ』は先の箇所で書かれていませんでした。先の箇所では『ダビデの子らは祭司であった』と書かれていますが、この箇所ではダビデの子たちが挙げられていません。この箇所で書かれているのは、総人数が「8」人であり、職務の数が「6」です。どちらの数も、この箇所では象徴的な意味を持たないはずです。「7」また「10」という数字であれば何か象徴性が含まれる実際の数だった可能性もありました。

【21:1】
『ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。「サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。」』
 ここではダビデの時代に起きた『三年間』の飢饉について言われています。3年間も飢饉があったというのは、かなりの期間です。その飢饉がどのぐらいの規模だったかは分かりません。多くの死者が飢饉により出たかもしれませんし、死ぬ人が出るほど悲惨ではなかった可能性もあります。ただイスラエル人が苦しい思いをしたことは間違いありません。

 飢饉が『三年間』も続いたのですから、これは明らかに「何か」がありました。ダビデは霊的に鋭い人だったので、「何か」があると気付きます。しかしダビデはその「何か」が何であったのか分かりませんでした。このため、ダビデはその「何か」が何であるか神に伺いを立てます。すると、神はサウルが『ギブオン人たちを殺した』と言われます。その出来事について、これまでの箇所では何も記されていませんでした。しかし、それは記されていないだけであり、実際にそういった出来事が起きていたのです。この出来事のため、神は呪いとして飢饉をイスラエルに与えておられたのです。つまり、飢饉の原因がダビデにあるのではありませんでした。飢饉が起きたのはもう全くサウルのせいでした。この通り、呪われた愚か者は、往々にして大きな災いを齎すものです。このため、ソロモンは『愚かな者と友となる者は害を受ける。』と箴言で言ったのでした。しかし、正しい者であっても、もし罪を犯すならば災いに陥ってしまいます。ダビデも正しい人でしたが、罪を犯したので大きな災いに陥りました。私たちは災いに陥らないため、罪を犯さないよう注意しなければなりません。

【21:2~3】
『そこで王はギブオン人たちを呼び出して、彼らに言った。―ギブオンの人たちはイスラエル人ではなく、エモリ人の生き残りであって、イスラエル人は、彼らと盟約を結んでいたのであるが、サウルが、イスラエルとユダの人々への熱心のあまり、彼らを打ち殺してしまおうとしたのであった。―ダビデはギブオン人たちに言った。「あなたがたのために、私は何をしなければならないのか。私が何を償ったら、あなたがたは主のゆずりの地を祝福できるのか。」』
 ギブオン人に対するサウルの罪が飢饉という呪いを齎したのであれば、その罪について解決すれば飢饉も取り去られるのは明らかです。このため、ダビデは償いをするため、サウルから苦しめられたギブオン人たちを自分のもとへ呼び出します。ギブオン人たちに償いをすれば、彼らは『主のゆずりの地を祝福できる』でしょう。そうすれば神も飢饉をイスラエルの地から取り去って下さるのです。

 2節目で書かれている通り、ギブオン人たちは異邦人である『エモリ人の生き残り』でしたが、イスラエル人と盟約を結んでいました。ですから、イスラエル人はこのギブオン人たちを滅ぼすべきではありませんでした。ところが、サウルは彼らを打ち殺してしまおうとしました。これはエモリ人が神の滅びに定められていたからでしょう(創世記15:18~21)。サウルがそのことを知らなかったはずはありません。サウルが『イスラエルとユダの人々への熱心のあまり』ギブオン人たちを打ち殺そうとしたというのは、つまり神の定め通りにギブオン人を滅ぼすことで、イスラエルとユダの人々からの大きな支持を獲得しようとしたということです。しかし、確かなところサウルはギブオン人を滅ぼすべきではありませんでした。彼らは滅びに定められていましたが、イスラエルと盟約を結んでいたギブオン人たちについて言えば、彼らはイスラエル人の仲間だったからです。聖書もサウルがしたことを非難しています。もしギブオン人がイスラエルと盟約を結んでいなければ、サウルがしたことは非難されていなかったはずです。ところで、この箇所ではサウルがギブオン人を『打ち殺してしまおうとした』と書かれています。つまり、これはまだギブオン人を打ち殺していないという意味です。しかし前の箇所では、サウルが『ギブオン人たちを殺した』と書かれていました。サウルがギブオン人たちを殺したのに殺そうとしていたとも言われているのは、一体どういうことなのでしょうか。これは簡単です。つまり、サウルはギブオン人たちの全体を打ち殺そうとしたものの、実際はそのようにせず、ただ一部のギブオン人たちを殺すだけに留めたということです。要するに、『打ち殺してしまおうとした』と言われているのはギブオン人の全体についてであり、『殺した』と言われているのはギブオン人の部分についてです。

【21:4~6】
『ギブオン人たちは彼に言った。「私たちとサウル、およびその一族との間の問題は、銀や金のことではありません。また私たちがイスラエルのうちで、人を殺すことでもありません。」そこでダビデが言った。「それでは私があなたがたに何をしたらよいと言うのか。」彼らは王に言った。「私たちを絶ち滅ぼそうとした者、私たちを滅ぼしてイスラエルの領土のどこにも、おらせないようにたくらんだ者、その者の子ども七人を、私たちに引き渡してください。私たちは、主の選ばれたサウルのギブアで、主のために、彼らをさらし者にします。」王は言った。「引き渡そう。」』
 ギブオン人たちは、サウルにされたことで心の痛みを持っていました。精神的な後遺症がギブオン人たちには負わされたのです。ギブオン人のような少数民族は、往々にして王や政府から迫害されたり虐殺されたりするものです。新疆ウイグル自治区にいる少数民族が、中国の共産党政府から虐げられているのも、その一つです。このギブオン人たちは、この問題が『銀や金』で解決されないと言います。何故なら、民族的なプライドはお金や財宝と引き換えにできないものだからです。またギブオン人たちは、『イスラエルのうちで、人を殺すこと』によってもこの問題は解決されないと言います。何故なら、そのようにするのは野蛮で邪悪なことだからです。ギブオン人たちはこのように言っただけで、どうすればいいのかということを、自分たちから話そうとはしません。ですから、ダビデは『私があなたがたに何をしたらよいと言うのか。』とギブオン人たちに尋ねます。すると、ギブオン人たちはサウルの子孫を引き渡して『さらし者』にさせてほしいと答えます。彼らは、サウルが自分たちを滅ぼそうとしたので、その悪をサウル家に返そうとしたわけです。そのようにすれば罪の問題が解決されるからです。ここで彼らがサウル家の『子ども』を求めたのは、子どもたちにこそ氏族の未来がかかっているからです。サウルはギブオン人たちの未来を消し去ろうとしました。ですから、彼らはサウル家の未来を消し去りたかったのです。また彼らが『七人』の子どもを求めたのは、罪の問題を完全に解決させるためでした。というのも「7」とは聖書で完全数だからです。これが「10人」でも意味することは『七人』の場合と同じでした。ギブオン人たちはその子どもたちを『サウルのギブア』で『さらし者』にすると言います。ギブアはサウルの住んでいる場所だったので、サウルの問題を解決するためには、そこが相応しい場所だったのです。ちょうど原爆の式典を広島で執り行うのが相応しいのと、よく似ています。もしダビデがギブオン人たちの求めを受け入れなければ、サウルの問題が解決されませんから、いつまで経っても飢饉の呪いがイスラエルから取り去られないままとなります。ですから、ダビデは『引き渡そう。』と言ってギブオン人たちの求めに応じました。彼は王としてイスラエル国家から飢饉を取り去る義務があったからです。

【21:7】
『しかし王は、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテを惜しんだ。それは、ダビデとサウルの子ヨナタンとの間で主に誓った誓いのためであった。』
 ダビデはギブオン人たちの求め通りにサウル家の子どもを引き渡すべきだったのですが、しかし『サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテ』を引き渡すことについては、『ヨナタンとの間で主に誓った誓いのため』心配しました。ダビデはヨナタンと誓った際、ヨナタンの子孫も含めた誓いを立てたのだからです。このためダビデは本来であればヨナタンの子メフィボシェテを引き渡すことができませんでした。もし引き渡せばダビデは誓約の違反者となるからです。しかし、この時の場合は、その誓いを破らなければなりませんでした。もし誓いを破らなければサウルの問題は永久に解決されませんから、破らざるを得なかったのです。後の箇所を見ると分かる通り、メフィボシェテを含めてギブオン人たちに引き渡したことで神の呪いは止むこととなったのですから、ダビデが誓いを破るのは問題なかったことになります。しかし、ダビデはメフィボシェテを引き渡すことについてかなり苦悩させられたはずです。ダビデは引き渡すことでヨナタンとの友情を傷付けることになるのだからです。

【21:8~9】
『王は、アヤの娘リツパがサウルに産んだふたりの子アルモニとメフィボシェテ、それに、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの子アデリエルに産んだ五人の子を取って、彼らをギブオン人の手に渡した。それで彼らは、この者たちを山の上で主の前に、さらし者にした。これら七人はいっしょに殺された。彼らは、刈り入れ時の初め、大麦の刈り入れの始まったころ、死刑に処せられた。』
 こうしてダビデは、ヨナタンの子メフィボシェテを、死刑に処するため引き渡します。ダビデが仕方なくメフィボシェテを引き渡したことは間違いありません。国家に害悪を齎したサウル家に属するメフィボシェテが、害悪を齎された国家よりも優先されてはなりませんでした。ダビデはどう考えても、メフィボシェテより国家を取るべきでした。そうしなければダビデは王として失格だったはずです。ダビデがメフィボシェテを引き渡す際におけるやり取りは、聖書に何も書かれていないので私たちには分かりません。このメフィボシェテ以外に、『リツパがサウルに産んだ』『アルモニ』および『サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの子アデリエルに産んだ五人の子』がギブオン人に引き渡されました。ギブオン人に悪を行なったのは、サウルでした。この7人の子どもたちは、恐らくギブオン人を滅ぼそうなどと思わなかったかもしれません。しかし、それでも彼らは死刑のため引き渡されました。これは彼らがサウルと契約的に一体だったからです。メフィボシェテ以外の子どもが引き渡される出来事についても、詳しく書かれてはいません。このようにして引き渡された7人の子どもたちは、ギブオン人たちの求め通り、『いっしょに殺され』ました。この死刑は『刈り入れ時の初め』に行なわれました。これは飢饉のことと関係していると思われます。この『刈り入れ』は確かに行なわれたのですが、刈り入れる度合いは少なかったはずです。何故なら、この時のイスラエルは飢饉に悩まされていたからです。この7人が死刑にされた出来事の詳細はここで詳しく記録されていません。

【21:10~11】
『アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。サウルのそばめアヤの娘リツパのしたことはダビデに知らされた。』
 死刑に処せられた7人のうち2人を産んだ『リツパ』は、死刑により死体となった7人を鳥や獣から守るため、番をします。死体は時間が経つと徐々に腐り、動物の餌食とならざるを得ません。ですから、リツパはそのような事態を防ごうとしました。彼女がこのようにしたのは『雨が天から彼らの上に降るときまで』でした。雨が降れば獣は死体に近寄らないだろうからです。この時にリツパは自分の産んだ『アルモニとメフィボシェテ』(Ⅱサムエル21章8節)以外の死体も、自分の産んだ2人の子どもたちと同様、しっかり守ったはずです。彼女が自分の子どもしか守らなかったというのは、不自然だからです。彼女は、よく女たちがしばしば敬虔で道徳的に見られようと演じつつ振る舞うかのように、このような番をしたのではなかったはずです。この時にリツパは『荒布を脱い』だのですから、7人の子どもたちが死刑に処せられたことで、嘆きの荒布を着ていたことが分かります。彼女がこの時に『荒布を脱い』だのは、獣を追い払うために邪魔だったからなのでしょう。リツパがこのようにしたことは、誰かにより『ダビデに知らされ』ました。誰がダビデに知らせたのかは分かりませんが、それはあまり重要なことではありません。

【21:12~14】
『すると、ダビデは行って、サウルの骨とその子ヨナタンの骨を、ヤベシュ・ギルアデの者たちのところから取って来た。これは、ペリシテ人がサウルをギルボアで殺した日に、ペリシテ人が彼らをさらしたベテ・シャンの広場から、彼らが盗んで行ったものであった。ダビデがサウルの骨とその子ヨナタンの骨をそこから携えて上ると、人々は、さらし者にされた者たちの骨を集めた。こうして、彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。』
 リツパの行なったことを知ったダビデは、ギルアデの場所まで行き、サウル及びヨナタンの骨を取って来ました。この2人の骨は、ペリシテ人が2人を殺した日に、ギルアデ人たちが自分たちの場所に持って行っていました。つまり、サウルとヨナタンの骨は、彼らの故郷であったベニヤミンの地に葬られていませんでした。ダビデはこの日になるまで、2人の骨を放ったままでいました。ダビデが放ったままでいた理由については分かりません。骨のあった『ヤベシュ・ギルアデ』とは、ギルアデの北西、ヨルダン川の近くにあります。またダビデはこの時、さらし者にされた7人の骨を集めるよう、指示を出します。そして合計9人の骨を、『ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り』ました。このようにされたのはダビデがそうするよう命じたからです。つまり、ダビデが命じていなければ、彼らの骨がキシュの墓に葬られることはなかったということです。

【21:14】
『その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。』
 こうしてサウルの問題は全て解決されました。サウルが行なおうとしていた殲滅の罪は、サウルの家に返されました。これでギブオン人たちの煩いは消し去られました。ちょうど殺人犯の死刑により、家族を殺された被害者の心がすっきりさせられるのと似ています。このようにしてギブオン人たちは『主のゆずりの地を祝福できる』(Ⅱサムエル21章3節)ようになりました。また、この時にはサウルとヨナタンの骨が、本来あるべき場所に移されることも実現しました。このようになったので神は、飢饉を取り去っていただきたいという『国の祈りに心を動かされ』ました。それまでもイスラエル人は飢饉のことで神に祈りを捧げていたはずです。しかし、この時になるまでは、祈りが聞き入れられることはありませんでした。それはサウルの問題があったからです。もうその問題が解決されたのですから祈りも聞かれるようになったのです。ヨハネ福音書で盲人だった男が言った通り、『神は罪人の言うことを聞かれない』のだからです。

【21:15】
『ペリシテ人はまた、イスラエルに戦いをしかけた。』
 飢饉の問題が過ぎ去ると、またもやペリシテ人がイスラエルに攻めて来ました。飢饉が過ぎ去ったらペリシテ人の襲来を受けたというのは、つまり悲惨に次ぐ悲惨。ダビデの歩みはいつもこのようでした。しかし、これはダビデが強くなり、また強くあり続けるためでした。というのも安寧ばかりで苦しみや不安がなければ、惰弱と怠惰とが忍び寄って来るのだからです。よく聞かれる「平和ボケ」というのも、これの一種なのです。ダビデが強くあり続ければ、いつも雄々しい歩みをすることができるのです。

【21:15~17】
『ダビデは自分の家来たちを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。それで、ラファの子孫のひとりであったイシュビ・ベノブは、ダビデを殺そうと考えた。彼の槍の重さは青銅で三百シェケル。そして彼は新しい剣を帯びていた。しかし、ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺した。』
 ダビデはこれまで幾度どなく戦争に参加しており、あのゴリアテとさえも対決したほどでした。ですから、ダビデにとって戦うというのは自然なことでした。この時もそれは例外ではありません。しかし、この時のダビデは『疲れてい』ました。これは年齢により身体が根本的に疲労していたという意味でしょう。老齢により細胞が疲労すると、気力や体力が減ったり、少し何かしただけでも疲れやすくなります。ダビデがこの戦いの時に、身体を動かしたので疲れたというのは、勿論です。しかし、この箇所で言われているのはダビデが老化により衰えていたと考えるのが自然でしょう。もう壮年を過ぎている人であれば、ダビデの疲労がどのようなのかよく理解できるかもしれません。まだ若さが残っている人は、だるくてやや動きにくい状態を考えたらよいかもしれません。「若者になぞ負けるものか。」などと言って老齢になってもほとんど衰えを見せなかった古代ローマ軍の老兵のような人がもし現代にいるというのであれば、老齢による衰えは想像するしかないかもしれません。

 このようなダビデの衰えを知った敵の『イシュビ・ベノブ』は、この戦いで『ダビデを殺そうと考えた』のですが、これはダビデが衰えているので殺せると思ったからでしょう。またこのペリシテ人は、あのゴリアテと兄弟でした。ですから、彼がダビデを殺そうと考えたのは、兄弟の仇を討つという求めもあったかもしれません。既に見た通りゴリアテとはかなりの巨体でした。この『イシュビ・ベノブ』はゴリアテの兄弟だったのですから、彼もゴリアテのように巨体だったはずです。というのも彼は『青銅で三百シェケル』すなわち3.5kgの槍を持っていたからです。巨体でなければ、これはかなり取り扱うのが難しい重さです。また彼は『新しい剣を帯びてい』ましたから、ダビデを殺すことは不可能でありませんでした。『新しい剣』は鋭いので身体を切り裂き絶命させることができるからです。しかし、アビシャイがこのペリシテ人を打ち殺したので、ダビデは殺されずに済みました。神がアビシャイによりダビデを守り、助けて下さったのです。つまり、この時にアビシャイは神がダビデを守るための道具として用いられました。このように正しい者であれば神の守りがあります。