【Ⅱサムエル記21:17~22:10】(2023/04/30)


【21:17】
『そのとき、ダビデの部下たちは彼に誓って言った。「あなたは、もうこれから、われわれといっしょに戦いに出ないでください。あなたがイスラエルのともしびを消さないために。」』
 ダビデは老いて疲労していたため、これから戦いで死ぬ確率は高まるばかりでした。ダビデは時間の経過と共に戦場で危なくなるだけです。これが一般の兵士であれば問題は無かったかもしれません。一般兵であれば、たとえ死んだとしても国家に大きな悪影響を齎さないはずだからです。ところがダビデの場合は異なります。もしダビデが死んでしまえば、国家は致命的な損失を受けることとなります。何故なら、王とは国家の『ともしび』なのですから。このため、『ダビデの部下たち』は、もうこれからダビデが戦争に参加しないよう誓って求めました。この求めはもっともです。この部下たちは、決して言うべきでない僭越なことを言ったのではありません。この求めに対しダビデがどのように応じたか聖書は何も記していません。しかし、ダビデは道理を弁えるしっかりした人でしたから、部下たちの求めを聞いて素直に応じたはずです。

【21:18~22】
『その後、ゴフでまたペリシテ人との戦いがあり、そのとき、フシャ人シベカイは、ラファの子孫のサフを打ち殺した。ゴフでまたペリシテ人との戦いがあったとき、ベツレヘム人ヤイルの子エルハナンは、ガテ人ゴリヤテの兄弟ラフミを打ち殺した。ラフミの槍の柄は、機織りの巻き棒のようであった。さらにガテで戦いがあったとき、そこに、手の指、足の指が六本ずつで、合計二十四本指の闘士がいた。彼もまた、ラファの子孫であった。彼はイスラエルをそしったが、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが彼を打ち殺した。これら四人はガテのラファの子孫で、ダビデとその家来たちの手にかかって倒れた。』
 先に見た通り、ゴリヤテの兄弟である『イシュビ・ベノブ』はアビシャイに殺されましたが、ゴリヤテの他の兄弟3人もイスラエル人により殺されました。その3人は一挙に殺されたのでなく、順々に一人ずつ殺されていきました。3人の兄弟のうち二番目に殺された『ラフミ』は、その『柄』が『機織りの巻き棒のようであった』『槍』を持っていました。これはラフミもゴリヤテと同様に巨体だったことを示しています。また三番目に殺された兄弟は、『イスラエルをそし』り、『合計二十四本指』を持っていました。これは彼が呪われていたことを示しています。ゴリヤテの兄弟がこれまで見た4人だけだったかどうか私たちには分かりません。もしかしたら他にも兄弟はいたかもしれませんが、聖書がゴリヤテの兄弟として示しているのは4人だけです。

 この通り、神の民に敵対する悪い者は滅ぼされてしまいます。歴史を見てもこれは明らかです。キリストに敵対したイスラエル人たちはローマ軍を通して滅びました。教会を憎んだ古代ローマもキリスト教により滅ぼされました。聖徒たちを弾圧しようとしたヒトラーおよびそのナチスも滅亡。偽の教会であったもののカトリックというキリスト教の一派を封じた江戸幕府は、カトリックを封じると共に真の教会であるプロテスタントとその伝道まで封じたわけですから、近代化に乗り遅れ、結局は滅んでしまいました。神の勢力に敵対してただで済むはずがないのです。

【22:1~2】
『主が、ダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、ダビデはこの歌のことばを主に歌った。彼はこう歌った。』
 神は、ダビデが戦う度に、敵の手からダビデを救い出しておられました。このため、ダビデが敵から打ち負かされることは決してありませんでした。実際にここまで書かれていた聖書の箇所を見ると、どうでしょうか。ダビデが悲惨な敗北をしたり惨めにも逃走したなどといった出来事は、何も書かれていませんでした。神がダビデをこのように救い出しておられたのは、ダビデが神から大いに恵まれていたからです。ダビデが神から恵まれていたのは、ダビデが特別に選ばれた人だったからです。ダビデが特別に選ばれていたのは、神がダビデによりキリストを予表させるためでした。つまり、ダビデが神から恵まれていたのはキリストにおいてでした。

 ダビデは戦いで神から救い出されると、神に対し賛美を捧げていました。これは詩篇を見ても分かることです。ダビデが自分を救い出して下さった神に賛美を捧げるのは、正しいことでした。何故なら、神はダビデに良くして下さったからです。私たちにしても、もし命の恩人が現われたとすれば、その人に対して称賛や感謝の言葉を送るはずです。ダビデが救い出して下さった神に賛美を捧げていたのは、これとよく似ています。私たちも神から助け出されたならば、神を賛美すべきです。聖徒である者はそのようにするのが相応しいからです。

 ダビデが神から救い出された際に歌った歌のうち、この22章ではサウルの時に歌った歌が書かれています。神がダビデをサウルから救われたのは、既にⅠサムエル記で見た通りです。この22章の歌は、詩篇18篇の歌とほぼ同じ内容です。詩篇とこの箇所では、ちょっとだけ異なっている部分もありますが、内容の意味が本質的に変わってしまうほどの相違ではありません。神が同じ歌を、この通り2つの箇所で記されたのは、この歌が重要だからに他なりません。ですから、同じ歌が聖書に2つも記されているからといって、重複の欠陥だと見做すことは決してできません。私たちにしても、何か重要なことがあれば、2回また3回以上であっても繰り返し言うではありませんか。であれば、どうして神がそのようにしてはいけないというのでしょうか。

 既に述べた通りダビデはキリストの予表ですから、これから見る22章の歌もダビデにおいてキリストが予表されています。この箇所の歌を見ると、ダビデによりキリストが示されているとよく分かります。神がそのようにされたのです。ですから、私たちはこの歌をダビデ自身に関する歌として捉えるだけでなく、そのように捉えると共にキリスト預言としても捉えなければなりません。

【22:2~4】
『彼はこう歌った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。』
 神は、戦いの度ごとに、ダビデを救い出しておられました。ダビデが神を求めると、ダビデはいつも神から助けられ守られました。ですから、ダビデはこの神をここで『岩』とか『やぐら』などと例えて言っています。これは例えであって、神が実際に物質者であるというのではありません。パウロも言った通り、神とは目に見えない非物質者であられるからです。ダビデが神について『わが巌』と言っているのは、神は求める者にとって巌のようだからです。神を求めるならば神により決して揺らぐことがなくなります。『とりで』と言われているのは、人が砦に入れば守られるのと同様、神を求めるならば完全に守られるからです。神は無敵の砦であられます。『救い主』と言われているのは、神が救いを与えて下さる御方だからです。神の他に『救い主』であられる御方はありません。『救いは主のものです。』(ヨナ書2章9節)とヨナが言った通りです。『わが身を避けるわが岩なる神』と言われているのは、神に身を避けるならば、堅固な岩に立つ者のように揺るがないからです。ダビデは神を岩としていたので揺らぐことがありませんでした。『盾』と言われているのは、神が盾で守るかのようにして、ダビデを敵の攻撃から守っておられたからです。このためダビデが敵の攻撃で負傷することはありませんでした。『救いの角』と言われているのは何でしょうか。聖書において『角』とは<権威>および<誇り>の象徴ですが、ここでは<誇り>の意味で言われています。つまり、ダビデは神とその救いを誇っていました。ハンナも『角』(Ⅰサムエル2章1節)という言葉を使って、神の救いを誇りました。神とその救いを誇るのは問題ありません。何故なら、聖書は『誇る者は主にあって誇れ。』と書いているからです。『わがやぐら』と言われているのは、先に見た『とりで』と意味的には同様のことです。櫓に入った者が敵から守られるのと同様、ダビデも神という櫓に入ったので、敵から守られたのです。『私を暴虐から救う私の救い主』と言われているのは、先に見た『救い主』とよく似ています。先のほうでは神が単に救い主と言われただけです。しかし、こちらのほうでは神の救いが暴虐からの救いであると明白に示されています。『逃げ場』と言われているのは、ダビデが神を守護者として逃げ頼るように求めたということです。ニーチェは、このような聖徒の態度また振る舞いを情けないと批判しています。神を『逃げ場』とする聖徒たちは女々しく弱々しい存在だと軽蔑するのです。しかし、人間が誰でも本質的に弱い存在であることは明らかです。もし神を逃げ場とする聖徒たちが軽蔑されるべきだとすれば、人間は誰でも弱いのですから、ほとんど全ての人間を軽蔑しなければいけなくなります。例えば、立場的に弱いので国の権威者や裁判官や弁護士を求める人は、他者に頼っているのですから軽蔑されねばならないでしょう。病や障害などで身体的に弱っている人が医者を求めたならば、その人も軽蔑されねばならなくなります。襲撃されて負傷したので誰かに助けを求めて叫ぶ人も、「自分で何も出来ないとは情けない奴だな。」などと言われて軽蔑されねばなりません。このような人たちが弱々しいと思われて軽蔑されるのは、おかしいことです。ですから、神を逃げ場として求める聖徒が軽蔑されるのも、おかしいことです。誰であれ弱い者が強いもしくは自分より優れた存在に頼るのは、自然なことだからです。それゆえ、神に頼る聖徒たちを軽蔑したニーチェの頭がおかしかったことは明らかです。彼がおかしかったのは、彼が発狂して廃人になったのを考えても分かります。聖徒たちを非難してばかりいるので、神から呪われて発狂したわけです。ニーチェは弱々しかったので、自分で自分の狂気を治すことが出来ず、死の力からも自分を救うことが出来ませんでした。彼も神を『逃げ場』として求めていれば、神から救っていただくことが出来たでしょうに。『ほめたたえられる方』と言われているのは、<神は褒め称えられるに値する御方>だという意味です。これは神がダビデを敵から救い出しておられたからです。この真の神でない偽りの神々は、褒め称えられるに値しません。何故なら、偽りの神々は、真の神のように人を救い出すことができないからです。天皇と日本人も第二次世界大戦の際は勝利できるよう神道の神々に祈願しましたが、神道の神々は日本と日本人を全く救えませんでした。そもそも真の神でない偽りの神々は、真の神と異なり、存在していません。ですから、『ほめたたえられる方』である神は、聖書に書かれているダビデの神である私たちの神だけなのです。

 この箇所では、神について「10」のことが言われています。数えればこれは誰でも分かります。これには明らかに象徴的な意味が込められています。聖書において「10」は完全数ですから、ダビデはここで神とその救いが完全であると示したいわけです。偶然とか自然に「10」となったわけではありません。この箇所で「10」の言葉が書かれているのは、間違いなく霊的に意図されたことです。聖書でこのように色々と列挙されている箇所があれば、私たちはその数が合計いくつなのか数えるべきです。そうすれば数で象徴性が込められている場合、そのことに気付くことができます。

 ダビデはキリストの予表でしたから、主も父なる神を『岩』や『とりで』としておられました。これは主がいつも父なる神に祈っておられたことからも分かります。父なる神は、御自分の子であるキリストを、いつも守り救い出しておられました。これは福音書を見れば明らかです。しかし、贖いの時だけは、守られず敵の手に委ねられました。ダビデはこのようではありませんでした。これだけは例外的な時でした。というのも、主は私たちを贖うために来られたのだからです。もし贖いの時にもキリストが守られていれば、主は十字架に架けられなかったでしょうから、贖いは実現していませんでした。しかし、この時以外は、いつも父なる神から守られていました。

 この通り、ダビデは神を岩としていたので、ことごとく守られていました。聖徒である者は、全てダビデと同じ神の民です。それゆえ、聖徒もダビデと同様、神を岩また盾として頼らなければなりません。そのようにすれば私たちも神から守られ助け出されるでしょう。神は御自分に頼る者をこそ喜ばれます。神でなく自分に頼る者は、神に嫌われるので呪われてしまいます(エレミヤ17:5)。

【22:5~6】
『死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。』
 結局は神に助け出されて安全だったものの、ダビデは戦いの中で、幾度となく生命の危険に晒されたので、何回も死の恐怖を味わっていました。ダビデはこの危機による恐怖を『死の波』また『滅びの川』という表現で示しています。これは詩的な表現です。実際にダビデの前にこのような波や川があったというのではありません。想像してみて下さい。私たちが『死の波』また『滅びの川』に押し流されているので、もう少しで死んで滅びそうな場面を。このような時であれば誰が恐れを抱かないでしょうか。ダビデはそのような状態も同然だったのです。5節目で『死の波は私を取り巻き』および『滅びの川は、私を恐れさせた』と言われているのは、ユダヤ特有の二重語法です。つまり、ある一つの事柄を2つの言い方で表現することにより、よりその意味を豊かにし強調させることもできる語法です。またダビデは敵と戦っている際、今にも死んであの世へ行きそうなことが多くありました。ダビデはそのような状況を『よみの綱』が『取り囲み』、『死のわな』が『立ち向かっ』て来るようだったと述べています。これもやはり詩的な表現であり、実際にダビデの前にこのような綱や罠が仕掛けられたというわけではありません。6節目で『よみの綱は私を取り囲み』および『死のわなは私に立ち向かった』と言われているのも、5節目と同様に二重語法です。この語法は聖書の多くの箇所で出て来ますから、是非とも覚えておくのが望ましいでしょう。

【22:7】
『私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。』
 このようにダビデはいつも敵から命を狙われましたから、その度ごとに神を呼び求めて叫びました。日本人もそうですが、無宗教の人でさえ、例えば飛行機が墜落しそうになった時などは、神に助けを求めて叫んだり祈ったりします。彼らがこのように助けを求める神の認識は、非常にもやもやしており、しかも常日頃から拝んだり祈ったりしている神でもありません。いつもは無視しているよく分かっていない対象としての神を、危機があった時にだけ求めるわけです。しかし、ダビデをはじめ正しい聖徒たちは、聖書からよく知っているだけでなく常日頃から祈りを捧げている対象である神に、助けていただきたいと求めて願うわけです。無宗教の人たちも是非、私たちのようになってほしいものです。

『主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。』
 危機に陥っていたダビデの叫びを、神はいつも聞き入れておられました。このため、ダビデはいつも神から助け出されていました。これはダビデが神に愛されていたからです。もし愛されていなければ、ダビデは敵の手に委ねられていたかもしれません。この箇所では神の『御耳』と書かれていますが、これは表現です。実際に神が物理的な耳を持っておられるというのではありません。神は目に見えない物質を超越された御方だからです。しかし、耳を創造された御方が、音を聞かれないということはあり得ません。ですから、神は物理的な耳を持っておられなくとも、この地上における音を聞いておられ、ダビデの叫ぶ声をも聞いておられたのです。ダビデが『御耳』と言っているのは、人間的な分かり易さのためです。

 この箇所で特に注目すべきなのは、ダビデが『宮』と言っていることです。『宮』とはすなわち神殿です。しかし、ダビデの時代にはまだ神殿がありませんでした。神の住まいとしてあったのは幕屋です。神殿が建てられたのはソロモンの時代になってからです。それでは、どうしてダビデはここでまだ建てられていなかった『宮』などと言っているのでしょうか。これは簡単です。つまり、ダビデが言っているのは、地上における神の御住まいではなく、天上における御住まいのことです。神は天におられます。そこは神の御住まいなのですから『宮』と呼ぶことができます。ダビデがやがて建てられる宮を先取りして既に今あるかのごとく語ったという可能性もあります。しかし、これは天のことを言っていると考えるのが自然でしょう。

 私たちも神に助けを求めて叫ぶならば、神は助けと守りを与えて下さいます。というのも、神に守られたダビデと全ての聖徒たちは、神の子であるという点で一緒だからです。幼い子どもが助けを求めて叫ぶならば、その子どもを助けてやろうとしない親がいるでしょうか。例外を考えなければ、普通に考えて、いないでしょう。人間の親でさえそのように自分の子を助けるというのであれば、尚のこと神は御自分の子らを助けて下さいます。しかし、それは聖徒たちが罪を犯していない場合に限られます。何故なら、『罪人の祈りは主に忌み嫌われる。』と箴言では言われているからです。主から見えなかった目を癒していただいた人も、『神は罪人の言うことを聞かれません。』と正しく言いました。ですから、もし罪を犯しているのであれば、助けを求める叫びが聞かれるのは、悔い改めてその罪を捨て去ってからとなります。神は罪を憎悪しておられるからです。罪に対して与えられるのは、守りや助けではなく、呪いと悲惨なのです。

【22:8~9】
『すると、地はゆるぎ、動いた。また、天の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった。』
 ダビデが敵から危機に晒されていたので、神はダビデのことで御怒りになりました。幼い子が別の子から虐められていたとすれば、その子のことで怒らない親がいるでしょうか。普通に考えていないでしょう。神がダビデのことで怒られたのは、これと同じです。ダビデはその怒りを感じました。それはダビデが叫び求めると、敵が悲惨になったり逃げたりするなど、変化が起きたからです。神が敵に臆病を送られたのです。それゆえ、ダビデはその怒りを感じたので『主がお怒りになったのだ。』と言っています。この箇所で地と天が揺らいだと言われているのは、実際のことではなかったでしょう。つまり、これは神が怒られたことを示す詩的な表現です。もし本当に地と天が揺れたとすれば、聖書にはそのことが書かれていたはずです。「神がダビデのことで怒られたので、敵のいる場所が揺れ動き、そのため敵は立ち続けることができなかった。」などと。しかし、これまでの箇所でこのような記述は見られませんでした。ですから、『すると、地はゆるぎ、動いた。また、天の基も震え、揺れた。』と言われているのは、表現だということになります。このような詩的な表現が気に入らない人も、不信者の中にはいるかもしれません。「聖書にはこのような表現が少なくない。」などと言って。しかし、ここで書かれているのは『歌』(Ⅱサムエル22章1節)です。歌で詩的な表現が使われるのは何も珍しくありません。ですから、ここで詩的な表現が見られても何もおかしくありません。9節目で『煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、…』と言われているのも、表現です。これも実際のことを言っているのではありません。何故なら、神はこの宇宙の大きさを遥かに超えた無限の存在であられるからです。もしこれが実際のことを言っているとすれば、神は人間のような鼻や口を持っておられることになりますが、それは神を物質という有限に閉じ込めることですから、あり得ないことです。このように主は敵にお怒りになられましたが、主が怒りを発されるならば、敵はどうしようもなくなります。『だれがその憤りに耐えられるだろうか。』と預言書で言われている通りです。
【22:10】
『主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。』
 主が『天を押し曲げて降りて来られた』と書かれているのは、神が天の場所から敵に対し怒りの働きかけをされたということです。つまり、これは表現です。無限なる神が、ダビデのいた戦場まで実際に降りて来られたというのは、全く考えられない話です。もしそうだったとすれば、神は無限なのですから、敵だけでなくダビデとダビデの部下たちまで、神により衝撃を受けて滅んでいたことでしょう。衝撃で消失してしまうか、無限の重力により跡形もなく押し潰されていたはずです。神が御自分のおられる天を『押し曲げて』降りて来られたというのは、つまり天の場所から地上に対し力強く働きかけたということです。神が『暗やみをその足の下にして』降りて来られたというのは、天の場所から地へと行なわれた神の働きかけが、誰も分からないほどごく自然であったということです。闇の中にいる人であれば、たとえ動いても、動いたことに気付けません。神も、霊的に敏感なダビデのような人でなければ気付けないほど自然に働きかけられたのです。これは神が闇の中におられるからです(出エジプト記20:21)。このため、人間の多くは神の存在に気付かなかったり、その働きかけに無頓着だったりするわけです。「しかし、神が闇の中におられるというのは、神が光であられるというのと矛盾しないか。」と思う人もいるかもしれません。確かにヨハネは『神は光』であると第一の手紙で述べています。神が光であれば、周囲の闇を全て掻き消してしまうんじゃないか?というのは、多くの人が持ちそうな疑問です。しかし、神が光であられるのと、神が闇の中におられるというのは、矛盾しません。というのも、神は無限の光であられる存在ですが、私たち被造物がその多くを知らないまた気づかないという意味で闇の中に住んでおられるかのようだということに過ぎないからです。