【Ⅱサムエル記22:11~27】(2023/05/07)


【22:11】
『主は、ケルブに乗って飛び、風の翼の上に現われた。』
 『主は、ケルブに乗って飛び』と言われているのは、主が『ケルブ』という御使いに、御自分の裁きを代行させたという意味です。御使いは神の裁きを地上において代行する役目があります。だからこそ、御使いという名前で彼らは呼ばれているわけです。つまり、この『ケルブ』は神の裁きを携えていました。ですから、神の代行者として働くケルブには、主が乗って飛ばれたと言われています。この『ケルブ』というのは単数形による呼び名です。ケルブが複数になると『ケルビム』という複数形の呼び名となります。この『ケルビム』のほうが、聖書では書かれている度合いが多く見られます。次に、主が『風の翼の上に現われた』と言われているのは、どういう意味でしょうか。これは敵に対する神の働きかけが、敵にも神の子らにも予測不可能だったという意味です。それというのも『風』の動きを予測することは私たちにできないからです。キリストがニコデモにこう言われた通りです。『風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。』(ヨハネ3章8節)ソロモンもこう言っています。『あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。』(伝道者の書11章5節)『ヤハウェであるわたしは変わることがない。』(マラキ書)と神は言っておられますから、神の働きかけが風のように予測できないというのは、今の時代も、そしてこれからも変わらないことです。

【22:12】
『主は、やみを回りに置かれた。』
 主が闇を御自分の回りに置かれたというのは、主の働きかけが、人間にとって理解できない、もしくは理解しにくい仕方で行なわれたということです。というのも、闇があれば私たちは何も識別できなくなるからです。これは誰でも日常的に経験していることです。このため、神はほとんど働きかけていると人間からは思われないかのように働きかけられました。ダビデのような霊的に鋭い人でも、神が闇の中で行なわれるかのような働きかけは、僅かしか理解できなかったはずです。このように神とは御自分の働きを人間が把捉しにくいように為される御方です。

『仮庵は水の集まりと、濃い雲。』
 『仮庵』とは、地上における神の御住まいです。では『水』とは何でしょうか。この水をどう解釈するかにより、『仮庵は水の集まり』と言われている箇所の意味も変わるでしょう。この『水』は実際の液体ではないと思われます。これは人々のことでしょう。続く箇所を見るならば、ダビデはどうやら出エジプトの出来事を念頭に置いているようです。あの時、主は『水』すなわち多くの人々のいる場所で『仮庵』に住んでおられました。その時には、私たちが既に見た通り、エジプト人という敵が神により滅ぼされました。つまり、ここではその時にエジプト人が打ち負かされたごとく、ダビデの敵も打ち負かされたということを言っているのでしょう。次に『雲』と言われているのは、聖書で神の権威・主権を意味します。その雲が『濃い』度合いで神の御住まいに満ちていました。これは、神がその主権をもって敵に働きかけたということです。この箇所はかなり難しいと思えます。

【22:13】
『御前の輝きから、炭火が燃え上がった。』
 神は光であられ栄光に満ちておられますので、その御前は『輝き』に満ちています。その御前から『炭火が燃え上がった』と言われているのは、どういう意味でしょうか。これは神がその栄光のうちに怒りを発されたということです。神は怒られる時にも御自分の栄光を現わされるからです。『炭火』というのは怒りの象徴表現です。

【22:14~15】
『主は、天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。主は、矢を放って彼らを散らし、いなずまで彼らをかき乱された。』
 ここで主が『雷鳴』や『いなずま』を起こされたと言われているのは、どういう意味なのでしょうか。これは実際に雷が起きたか、そうでなければ象徴表現です。実際に雷が起きたのであれば象徴表現ではなく、象徴表現であれば実際に雷が起きたのではありません。どちらなのでしょうか。これはどちらであった可能性もあります。まずダビデが戦っている時、敵に対し雷鳴が神から響かせられたという可能性はかなりあります。敵たちはその雷鳴を見て、「ヤハウェがダビデと共に戦っておられる。このような神がダビデと共におられるのであれば、どうして我々が勝てるだろうか。」などと思い逃げたわけです。しかし、ここまでの箇所で、ダビデの戦闘時にそのような出来事が起きたとは書かれていませんでした。これが単に象徴としての表現である可能性もあります。その場合、ダビデが戦っている時、実際に雷が起きたのではありません。しかし、敵たちはあたかも巨大な力強い雷が生じたかのように震え慄いて逃げたわけです。ちょうどシナイ山の時、雷が鳴ったので、イスラエル人たちが大いに戦慄したかのようにして。

 主が『御声を発せられた』と言われているのは、どういう意味でしょうか。これは実際のことだったでしょう。つまり、象徴表現としてこう言われているのではありません。旧約時代では、まだ主が御民の間において御声を発しておられました。紀元30年頃、キリストと共にいたユダヤ人たちも、天から御声が聞こえたので、雷の音だと勘違いした人がいたのです(ヨハネ福音書)。しかし、主の発せられた御声がどのような内容だったかは詳しく分かりません。

 主が『矢を放』たれたというのは、何のことでしょうか。これは象徴的な表現だと思われます。つまり、実際に矢が放たれたのではありません。『矢を放って』という言葉が実際のことであれば、ダビデが戦っている時、天から敵に向かって矢が降って来たはずです。しかし、これまでの箇所でそのような出来事が起きたとは書かれていませんでした。これは象徴としてこのように言われていると解するのが自然でしょう。ほとんど宙を埋め尽くすほどの矢が多くの弓矢部隊により放たれるのであれば―こういうことは古代の戦争でよくありました―、敵はひとたまりもなくなり、逃げ出す他ありません。主はその働きかけにより、あたかも敵が弓で追い散らされるかのように『散らし』てしまわれたのです。

【22:16】
『こうして、海の底が現われ、地の基があらわにされた。主のとがめにより、その鼻の荒いいぶきによって。』
 『海の底が現われ、地の基があらわにされた』と言われているのは、間違いなく紅海で起きたあの素晴らしい出来事についてです。しかし、これは象徴表現に過ぎないと解するべきです。すなわち、実際に海が干上がったと言われているわけではありません。出エジプトの際にエジプト人たちがことごとく紅海の場所で滅ぼされたごとく、ダビデと戦っている敵どももことごとく滅ぼされたということです。もしこれが実際の出来事だったとすれば、ダビデの戦闘時にそのような出来事が起きていたはずです。その場合、その出来事について聖書は書き記していたはずだと思われます。しかし、ダビデについて記されているサムエル記の第一と第二の巻で、そのような出来事は何も書き記されていません。ですから、『海の底が現われ…』と言われているのは象徴的な表現だと解するべきなのです。確かにこれを実際の出来事として解するのは難しいのです。何故なら、ダビデが敵と戦っていた際、そもそも戦場の付近に海か川か湖があったかどうか定かではないからです。

 このようにして敵が滅ぼされたのは、『主のとがめにより、その鼻の荒いいぶきによって』でした。『主のとがめ』というのは、つまり敵に対する神の罰です。これは敵が神の僕であるダビデを滅ぼそうとする邪悪な者どもだったからです。聖書が述べるように『正しい者を憎む者は罪に定められる』のです。『その鼻の荒いいぶき』というのは、神の御怒りを示しています。猛獣が怒るならば、敵を食い殺そうとして荒い鼻の息遣いとなるでしょう。そのように神もダビデを滅ぼそうとする敵に対し憤られたのです。もっとも、神がそのように憤られたからといって、神が何か野蛮な獣性をお持ちであるということにはなりません。ここでは神の激しい怒りを示すため、例えとして怒る猛獣が用いられているだけだからです。

【22:17~18】
『主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。主は、私の強い敵と、私を憎む者とから、私を救い出された。彼らは私より強かったから。』
 ここでダビデは自分が神から救い出されたことについて告白しています。ダビデがそこから『引き上げられた』と言っている『大水』とは、敵どものことです。聖書において『大水』とは数多くいる異邦人の象徴だからです。ダビデはここで主が『御手を伸べて私を捕え』たと言っています。つまり、ダビデが助かったのは偶然とか自分の力によるのではないということです。ダビデはこのようにして神に救いの栄光を帰しています。またダビデはここで『強い敵』と『私と憎む者』から悩まされたということを示しています。ダビデがこのようになったのは、しっかり意味がありました。無意味にそのようなことが起きたのではありません。ダビデにこのようなことが起きたのは、ダビデが鍛えられるため、また神の慈しみが救いを通してダビデにおいて現われるためでした。

 聖徒であればダビデのように神から救い出されます。幼い子どもが危険であれば親はその子どもを助けようとしないでしょうか。もちろん、助けるでしょう。神も聖徒たちにそうして下さるのです。戦いの時、私たちはダビデと同じようにこう言うかもしれません。『彼らは私より強かった』。しかし、神は強い敵よりも無限に上回っておられます。ですから、聖徒たちは敵がどうであれ、安心して神に信頼することができるのです。一方、敵のほうは聖徒に対しこう言うかもしれません。「彼は私たちよりも弱い」。確かにその通りかもしれません。しかしながら、このように言う敵どもは聖徒たちと共におられる無敵の神のことを全く考慮していません。

 ダビデが予表しているキリストも、やはり父なる神を御自分の助けとしておられました。キリストはその公生涯の間、パリサイ人や民衆から酷い目に遭わされ、殺されそうだった時も多くありました。しかし、父なる神はその度ごとに、キリストを助け出しておられました。もちろん、前にも述べたように、十字架の時だけは例外的に話が違いました。

【22:19~20】
『彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。』
 ここでダビデが言っている『わざわいの日』とは、そのままでは敵に攻撃されてダビデが死んでしまう日です。カエサルで言えば、無数の議員に襲われて暗殺されるあの日が「わざわいの日」です。確かにダビデは『わざわいの日』に敵から殺されてしまうところでした。しかし、主はそのようなダビデを『広い所に連れ出し』『助け出され』ました。『広い所』とは、少し前の箇所を考えるならば、イスラエル人たちが紅海を出てから着いた荒野のことでしょう。その時、モーセ率いるイスラエル人たちは、敵であるエジプト人から救い出されて安全な状態となりました。ダビデもそのように敵から救い出されて安全な状態となったわけです。しかし、ダビデが救い出された時、紅海の奇跡が再び起きたというのではなかったはずです。つまり、ここで『広い所』と言われているのは、出エジプトの出来事における救いを思い起こさせるための例えです。ダビデがこのように神から救い出されたのは、『主が私を喜びとされたから』でした。神に喜ばれるダビデのような者は、神から恵みにより守りと助けを受けることができます。しかし、神から憎まれている者はサウルのように助けられもせず滅んでしまいます。19節目で言われている通り、ダビデは自分の力でなく主こそを『ささえ』としていました。これは敬虔であり正しいことでした。不確かで弱い己自身の力や実際は存在しない偽りの神々を自分の支えとする者は、愚かで虚しいと聖書は教えています。

【22:21~25】
『主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった。主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。私は主の前に全く、私の罪から身を守る。主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって私に償いをされた。』
 ここでダビデ自身が言っている通り、ダビデは神の御前に敬虔で正しく歩んでいました。ダビデは神に対し誠実な忠実さを持っていました。ですから、ダビデは神の御前で罪を犯していませんでした。「しかしダビデはバテ・シェバとウリヤのことで罪を犯したじゃなかったか。」と思う人もいるかもしれません。確かにダビデはそのような罪を犯しましたが、この章の冒頭で書かれていた通り、この歌はサウルからダビデが助け出された時に歌われた歌です。その時にまだダビデはバテ・シェバとウリヤのことで罪を犯していませんでした。ですから、このような疑問はここで何も意味を持たないことが分かります。この歌は、あの罪を犯したばかりの時であれば、決して作れない歌だったはずです。しかし、その罪はまだ犯されていませんでした。確かに、サウルの時代にダビデは非常な敬虔さをもって歩んでいました。その頃、ダビデは女を自分たちから遠ざけていたからです。つまり、ダビデは清い状態を保っていました。だからこそ、祭司はダビデに聖別されたパンを与えることができたわけです(Ⅰサムエル25:1~6)。もしダビデが罪を犯していたならば、パンは与えられていなかったでしょう。

 ダビデが敵から助け出されたのは、ダビデがこのように正しく歩んでいるからでした。道徳意識の高い人ほど、道徳的な人を良く思うでしょう。神は道徳そのものであられます。ですから、神は正しく歩んでいるダビデを喜んでおられました。このため、ダビデは神から助けていただくことができたわけです。もしダビデが敬虔に歩んでいなければ、神から喜ばれていなかったかもしれません。その場合、ダビデは神の助けを受けられていなかったかもしれません。ここでダビデは神が助けて下さったことを神の『償い』と言っています。ダビデはあたかも神がダビデを助けなければいけなかったかのように言っているわけです。もちろん、何をどうするか神は全ての主権をお持ちであられます。ダビデを助けるのも助けないのも、神は御心のままになさいます。神が行なわれたのはダビデを助けるということでした。ダビデが神の御前に正しく歩んでいたので、神は御自分の義ゆえ助けることをされずにおられませんでした。このような神の態度をダビデは『償い』と言って表現しているのです。

 私たちもダビデのように清く正しく敬虔に歩むべきでしょう。そうすれば神に喜ばれることができます。その場合、私たちは神の助けと守りを期待していいのです。しかし、不敬虔に歩んでいるのであれば心配しなければなりません。何故なら、神は不敬虔な者を喜ばれないからです。神に喜ばれないのであれば、神の助けと守りを受けられなかったとしても、文句は言えないのです。

 この箇所は大いに注意する必要があります。というのも、この箇所を行為義認の根拠とする者たちがいるからです。それはカトリックのことです。これはとんでもないことです。カトリックは、ここで神がダビデの敬虔さに『償い』をして救い出されたからというので、行為により救いが得られるなどと考えます。ですから、彼らは救いを得るために自分たちの善い行ないが必要だと考えています。しかし、これは誤っています。何故なら、ここでは救いの根拠が示されているのではないからです。聖書が救いの根拠としているのは、行為ではありません。『行ないによるのではありません。』とパウロが救いについてエペソ2章で述べた通りです。この箇所では、単に神がダビデを救い出されたことの当然性について言われているだけです。つまり、誰かが損害を与えた場合に当然ながら必ず償うべきであるのと同様、神も正しく歩んでいたダビデに対し、当然のように守りと助けを与えられたということです。カトリックがこのような箇所を行為義認の根拠とするのは、明らかに間違っています。彼らは神から霊的な御恵みを受けていないので、聖書を正しく解釈することができないのです。

 私たちは、カトリックのような致命的誤謬に陥らないようにすべきです。カトリックは自分たちの誤謬を正当化させるため、聖書の御言葉を利用しているのです。これは良くないことです。何故なら、教義とは聖書の御言葉から導き出されるべきものだからです。まず御言葉があり、その御言葉から確かな教義が導き出される。これが正しい順序です。ところがカトリックの場合、まず自分たちの誤謬があり、その誤謬の後に御言葉が続くのです。このようにするのは違法です。

【22:26~27】
『あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。』
 神は私たち人間の行ないや振る舞いに、そのまま返される御方です。私たちの行ないや振る舞いが良かったとしましょう。その場合、神は私たちに慈しみ深く働きかけて下さいます。しかし、私たちが悪ければ、神も私たちに悪い出来事を起こされるのです。ダビデはここでそのことについて4つの例を挙げています。まず神は『恵み深い者には、恵み深く』あられます。これは寛大な者には、神も大きな御恵みを与えて下さるということです。惜しみなく与えているのに、財産が減らず、一定の状態を保ち続けるか、更に増し加えられる、という人が世の中にはいます。こういう人がこれの良い例です。また神は『全き者には、全くあられ』ます。これは落ち度のない完全な者には、神も十全な仕方で働きかけて下さるということです。何故なら、十全さを持つ者に十全的な出来事が起こるのは相応しいことだからです。また神は『きよい者には、きよく』あられます。つまり、心が純粋で正しい者がいれば、神はその者に報いて良くして下さるということです。神は心の清らかさを喜ばれるからです。『曲がった者には、ねじ曲げる』というのは、先に述べた場合と全く逆のことです。神は精神が捻じ曲がった悪い者には、そのような者が受けるに相応しい惨めな出来事を起こされます。国家ですが、北朝鮮は曲がったことばかりしているので、神はその報いにより、制裁や恐怖や非難や飢餓といった悲惨な事柄でこの国を曲げておられます。北朝鮮が曲がったことをするので、北朝鮮も曲げられるのです。