【Ⅱサムエル記22:28~35】(2023/05/14)


【22:28】
『あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。』
 神は、低かったり惨めだったりする者をこそ憐れまれる御方です。そのような者が救い出されるならば、神の栄光が豊かに現われるからです。悲惨な者であればあるほど、救い出されても自らを誇ることがありません。ですから、神は『悩む民を救われ』るのです。ダビデも虐げられている悲惨な者だったので、『悩む民』でした。しかし、神は『高ぶる者に目を向けて、これを低くされます』。これは神が高慢を忌み嫌っておられるからです。これは歴史を見ればよく分かります。サタンと人間は高ぶったからこそ堕落し低められたのです。ネブカデネザルも高ぶったからこそ、神の働きかけにより低くされたのです。聖徒たちはダビデのように低くしているのがよいでしょう。高ぶって神から裁かれても自業自得なのです。もし私たちが謙遜にしているならば、神により高められるでしょう。使徒がこう言った通りです。『主の御前で遜りなさい。そうすれば、主があなたがたを高くして下さいます。』

【22:29~30】
『主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。』
 ダビデにとって、神は『ともしび』でした。ヨハネが第一の手紙の1章で述べた通り、神は『光』であられます。この神は聖徒たちの『やみを照らされます』。ですから、聖徒たちは神という輝きにより、何をすればいいか、どのようにすればいいか、分かります。ちょうどライトを持った人が夜道でしっかり歩めるのと似ています。しかし、神という『ともしび』を持たない者は、闇に包まれています。そのような闇の子たちは、光で照らされていないので、自分が何をしているのかさえ分かりません。ちょうどライトを持たない人が夜道でどこへ行くかも分からないのに歩くようなものです。この神の他に人を照らす輝きはありません。神を持たなければ、必然的に闇を持つ他ないわけです。このようにダビデは神という光に照らされていたので、戦いの際にどうすればいいのか分かりました。このため、ダビデは神により『軍勢に襲いかかり』ました。襲いかかられた敵は闇の状態です。これは暗視装置で暗闇の中でも見える人が、暗視装置を持たない暗闇にいる人を襲うようなものです。またダビデは神により照らされていたので、どうすればいいのか分かり、そのため神により『城壁を飛び越えま』した。城壁を飛び越えるとは、敵がその中にいる城壁を壊したり乗り越えるなどして、突破することです。城壁の内部にいた敵は闇ですから、光で照らされているダビデに対処できません。このようにしてダビデは敵に勝利したのです。

 神は全ての聖徒における『ともしび』であられます。神がダビデだけに対し『ともしび』であられるのではありません。それゆえ、私たちもダビデと同様、神という光により歩まねばなりません。そうすれば神が闇を照らして下さるので、私たちは何をすればいいか分かるでしょう。またダビデのように『軍勢に襲いかかり』、『城壁を飛び越え』ることもできるようになります。私たちが自分自身により歩むならば、光はなく、ただ闇があるのみです。その場合、私たちは闇から闇に向かって歩む他ありません。

【22:31】
『神、その道は完全。』
 神の道は完全ですが、その『道』とは何でしょうか。この『道』は律法と解されます。何故なら、神は人に律法をその歩むべき法として与えられたからです。律法では「このようにせよ。」と命じられていますが、これはつまり「このように歩め。」ということです。ですから律法は『道』なわけです。これを「御業」として解する人もいるかもしれません。しかし、これは「律法」と解するほうが自然でしょう。この『道』はあくまでも比喩です。実際の物理的な道について言われているわけではありません。この律法という道が『完全』なのです。何故なら、それは神による完全な法だからです。パウロもローマ書でこう言いました。『ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。』(7:12)人間は不完全なので、その作る法も誤っていたり過不足のあることが多くあります。しかし神は完全なので、その法も完全です。聖徒たちはこの律法という道に歩むべきです。すなわち、律法を道徳的な規範として歩むべきです。そうすれば聖徒たちの歩みは完全なものとなるでしょう。

『主のみことばは純粋。』
 『主のみことばは純粋』とは、つまり御言葉に偽りがないということです。それは神が『真実で正しい』御方だからです。そのような神の語られる御言葉はどれも『純粋』です。民数記でも言われている通り、『主は決して偽りを言われない』のです。詩篇119:160の箇所でも『みことばのすべてはまことです。』と言われています。私たちはこの御言葉に信頼すべきです。神の御言葉は全て『純粋』ですから、信頼するに値します。偽りや誤りの多い人間の言葉とは異なります。自分の知恵や力に頼るべきではありません。

『主はすべて彼に身を避ける者の盾。』
 主は、聖徒たちにとって最強で無敵で完全な『盾』であられます。聖徒がこの神を盾とするならば、全く守られます。つまり、敵の攻撃を神が全て防いで下さいます。ダビデも主を『盾』としていたので、敵から全く守られました。実際、聖書でダビデが負傷したなどと書き記されている箇所はありません。聖書のこの箇所以外の箇所でも、神は『盾』であると書かれています。私たちが自分自身を自分の盾としても、それは弱々しい盾です。もし敵という剣のほうが強ければ、遅かれ早かれ打ち砕かれてしまいます。また私たちが誰か他人を自分の盾とするのも、やはり同じことが言えます。その他人という盾が敵という剣よりも弱ければ、遅かれ早かれその他人は打ち砕かれてしまいます。聖徒たちは神をこそ盾にしなければいけません。そうすれば完全な守りが与えられるでしょう。もし私たちが自分か他人を盾としたのであれば、敵から打ち負かされることになっても文句は言えません。

【22:32】
『まことに、主のほかにだれが神であろうか。』
 ここでダビデが言っている通り、『主』こそが神であられます。神々と呼ばれる存在であればこの地球上に多くいますが、それらはどれも真の神ではありません。それは偽りの神々であって、本当は存在しない神なのです。それは人間が勝手に自分自身の頭で作り出した想像に過ぎません。しかし、真の神はこの宇宙と地球とそこにいる全ての生物を造られました。この神こそが唯一の神であられます。パウロもテモテに対してこう言った通りです。『神は唯一です。』神御自身もこう言われました。『わたしが神である、他にはいない。』このため、神は御自分の民が他の神々に引き込まれることを禁じられたのです。『あなたには、わたしの他に他の神々があってはならない。』と十戒の最初で言われている通りです。この唯一の神でない偽りの神々を作ったり拝んだりするのは、偶像崇拝の罪となります。そのような罪を犯すならば呪われてしまいます。しかし、真の神を信じ拝むならば、その人には祝福があります。

『私たちの神のほかにだれが岩であろうか。』
 ダビデが言っている通り、神が、神こそが『岩』であられます。しかし『岩』とはどのような意味でしょうか。これは拠り頼む者には堅固な支えであるということを示す象徴です。つまり、神が実際の物理的な岩であるというわけではありません。神は物質を超越した御方だからです。人が、自分自身であれ他者であれ、人間に寄り頼んで岩とするならば、悲惨なことです。何故なら、人は弱く、罪深く、堕落した、不完全で、矮小な存在だからです。ですから、聖徒たちは神にこそ拠り頼み、この神を『岩』とすべきです。そうすれば私たちは決して揺るがないようになります。ダビデも神を『岩』としていたので、決して揺らぐことがありませんでした。

【22:33】
『この神こそ、私の力強いとりで。』
 神は、ダビデにおける『力強いとりで』でした。つまり、人が砦に逃れるならば守られて安全であるのと同様、神もダビデを守り安全にしておられました。神が実際に物理的な砦であるというのではありません。ダビデが全ての戦いでいつも実際的な砦にいたかどうかは分かりません。しかし、神という『力強いとりで』にはいつもいたのです。聖徒たちが実際の砦に入ることは否定されません。もし聖徒たちが必要なのであれば、実際的な砦に入るべきでしょう。しかし、実際的な砦に入るにせよ入らないにせよ、私たちはいつも神という砦の中に入っているべきです。そうするならば私たちは必ず守られ安全でいられるでしょう。神はいつでも変わることのない御方です。それゆえ、神はいついかなる時も『とりで』であられます。

『私の道を完全に探り出される。』
 神は、ダビデ『の道を完全に探り出される』御方でした。『探り出される』とは、つまりダビデがどのように歩むべきか探して教えるという意味です。つまり、『探り出される』とは「導く」ということです。その導きは『完全』でした。つまり、ダビデに対する神の導きは完璧で誤ったところがありませんでした。私たちも神に道を探り出していただくべきです。そうすれば、私たちの歩みは御心に適った全きものとなります。神という導き手に導かれるほど良い導きがあるでしょうか。決してありません。自分自身で自分を導きたいと思う人がいるでしょうか。愚かな人です。そういう人は愚かな道を歩むことになるからです。自然に考えたとしても、不完全さの多い自己を己の導き手とするのは、あまりにもリスクが高いと言わねばなりません。

【22:34~35】
『彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓でも引けるようにされる。』
 ダビデはここで神を『彼』と単数形で言っています。神は三位ありますから御自分について『われわれ』(創世記1章26節)と言われましたが、一体ですから『ただひとり』(申命記6章4節)であられます。ですから、ダビデは「彼ら」と複数形で言わなかったわけです。『ひとり』であられる神を「彼ら」と言うのは、多神教ですから、致命的な間違いです。実際、聖書で神について「彼ら」と言われている箇所はありません。この神はダビデ『の足を雌鹿のようにし』ておられました。雌鹿は軽やかな跳躍により高い場所へ至ります。ダビデもそのような軽やかさを戦いにおいて持っていました。ですから、『私の足を雌鹿のようにし』と言われているのは、ダビデの足が雌鹿のごとく細くなったということではありません。このようにダビデは『雌鹿のように』されたので、『高い所に立』つことができました。ダビデが高い所に立ったというのは、つまり敵よりも優位な状態でいられたということでしょう。何故なら、高い場所にいれば下にいる敵を攻撃しやすいからです。しかし、下の場所にいれば上にいる敵を攻撃することは難しいのです。ですから、『高い所に立たせてくださる』というのは、実際的な言葉というより表現だと解するのが自然です。勿論、ダビデが戦いの中で高い場所に立つことはかなりあっただろうと思われるのではありますが。神は、ダビデと同様、私たちの足をも雌鹿のようにして下さいます。それゆえ、聖徒たちはダビデ以外の人でも『高い所に立たせて』いただけるのです。何故なら、あらゆる聖徒はダビデと同じく神の民なのだからです。私たちが高い場所に立たせていただけるならば、敵よりも優位となるでしょう。

 また神はダビデの手を戦いのために鍛えておられました。これは神がダビデに戦う力を与えておられたということです。民に力を与えられるのは神であられます。このためダビデは神により『青銅の弓でも引けるようにされ』ました。これはダビデが戦う際において、何も困難を感じなかったという意味でしょう。何故なら、『青銅の弓』とは重くて持ちにくい弓でしょうけども、ダビデはそのような弓でも持てるとここで言われているからです。つまり、ダビデが『青銅の弓』を引けるというのは表現として解するべきです。聖書においてダビデが弓を武器として使用していたと書かれている箇所はありません。ダビデが使用していた武器は、剣と石投げ袋です。神はダビデだけでなく、私たちの『手を鍛え』ても下さいます。それゆえ、私たちは『青銅の弓でも引けるようにされ』ることでしょう。つまり、神に恵まれた聖徒たちは戦いにおいて勝利できるということです。さあ、ダビデと同じように私たちも神から勝利をいただこうではありませんか。