【Ⅱサムエル記22:36~48】(2023/05/21)


【22:36】
『こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。』
 神は、いつも御自分という盾によりダビデを守り救っておられました。このため、ダビデはいつも安全でいられました。ダビデはこの守りと救いを『御救いの盾』と呼んでいます。これは比喩的な表現です。神はダビデ以外の聖徒にも、この『御救いの盾』を与えて下さいます。その盾により聖徒たちは全く守られるのです。ですから、私たちはこの盾を求めるべきです。そうすればそれが与えられるでしょう。主が『求めなさい。そうすれば与えられます。』と言われた通りに。

【22:36~37】
『あなたの謙遜は、私を大きくされます。あなたは私を大またで歩かせます。私のくるぶしはよろけませんでした。』
 ダビデがここで言っている通り、神は『謙遜』をお持ちであられます。謙遜であられるからこそ、神の第二位格である御子は人となられたのです。謙遜でなければ、神という偉大な御方がどうして人になられたでしょうか。御子の受肉は神が『謙遜』であられることをまざまざと示しています。この神の『謙遜』がダビデを『大きくされ』たと、ダビデはここで言っています。これは神のダビデに対する働きかけのことです。何故なら、神は偉大であられるのに被造物に過ぎないダビデという小さな人間を救うため働きかけて下さったからです。この働きかけは正に神の謙遜によるのです。このような謙遜による恵みのため、ダビデは『大またで歩かせ』ていただくことができました。そしてダビデの『くるぶしはよろけませんでした』。これはつまりダビデが戦いにおいて力強く歩めたということです。もしダビデが強くされていなければ、ダビデは戦いにおいて小股であり、踝もよろけていたことでしょう。神の謙遜は、ダビデだけでなく、全ての聖徒たちをもダビデと同様に『大きくされます』。御恵みが聖徒に注がれるのであれば、確かにそうです。そのようになれば、私たちも『大またで歩かせ』ていただき、そして『くるぶしはよろけ』ることもなくなるのです。このようにされる御恵みは本当に感謝なことなのです。

【22:38~41】
『私は、敵を追って、これを根絶やしにし、絶ち滅ぼすまでは、引き返しませんでした。私が彼らを絶ち滅ぼし、打ち砕いたため、彼らは立てず、私の足もとに倒れました。あなたは、戦いのために、私に力を帯びさせ、私に立ち向かう者を私のもとにひれ伏させました。また、敵が私に背を見せるようにされたので、私は私を憎む者を滅ぼしました。』
 ダビデは、自分と戦っている敵どもを追いかけ、徹底的に滅ぼしました。ダビデに妥協や情けはありませんでした。「容赦しない。」とは正にこのことでした。このため、敵どもは倒されてダビデに対抗できませんでした。神が共におられたのですから、ダビデは敵の反撃により僅かでも傷を負ったりしなかったはずです。「完全勝利」とは正にこのことでした。その時には、ダビデだけでなく、ダビデに属する一般のイスラエル兵たちも、ダビデと共に敵を容易く打ち砕いていたはずです。というのも、一般の兵士たちは首領であるダビデと契約的に一体だからです。ダビデだけ善戦し、ダビデ以外の兵士たちは苦戦したというのは考えられません。ダビデがこのように敵を打ち砕いたのは、神がダビデに『力を帯びさせ』たからでした。つまり、ダビデが自分自身の力により敵を打ち砕けたわけではありません。それゆえ、ダビデは自分に勝利の栄光を帰すことが出来ませんでした。また、神は敵がダビデに背を見せるよう働きかけておられました(41節)。つまり、神は敵の心に臆病を送られたのです。これはダビデにとっては恵みであり、敵にとっては呪いでした。このようにダビデは神から力を帯びさせていただいただけでなく、敵もダビデに対し背を向けました。一方は力強くされているのに、一方は弱々しくされている。このため、ダビデは自分を『憎む者を滅ぼし』てしまうことができたのです。神のゆえにこのようになりました。もし神がダビデに力を帯びさせず、敵にも臆病を与えておられなければ、ダビデは敵に対し勝利を得られていなかったことでしょう。

 私たちも、ダビデと同様、神により敵を滅ぼし尽くすことが出来るでしょう。神が聖徒たちに御恵みを注いで下さるのであれば、確かにそうです。実際にこれまでの歴史を見ると、どうでしょうか。キリスト教の国や民族が、多くの国を打ち負かしたり、世界に先駆けて発展したり、国際的な支配の力を持てたりしたのは明らかです。もし神が御恵みを与えて下さらなければ、どうしてこういったことが起きたでしょうか。もし御恵みがなければ、弱くなったり悲惨になったりしていたはずなのです。

 しかし、聖徒たちがダビデのように勝利できるというのは、罪を犯していない限りにおいてです。何故なら、罪を犯すならば呪いが注がれるからです。呪いが注がれるならば敵に打ち勝つのは難しいでしょう。士師時代のユダヤ人も、不敬虔な状態に陥っていたので、祝福されず、呪いにより敵から打ち負かされてばかりだったのです。私たちは勝利の御恵みを得たいでしょうか。そうであれば不敬虔を避けねばならないでしょう。

【22:42~43】
『彼らが叫んでも、救う者はなかった。主に叫んでも、答えはなかった。私は、彼らを地のちりのように打ち砕き、道のどろのように、粉々に砕いて踏みつけた。』
 ダビデと戦っていた敵は、助けを求めて叫びましたが、救ってくれる存在はいませんでした。これは敵が呪われていたからです。助けを求めて叫んでも虚しいというのは呪われているということでなくて何でしょうか。もし呪われていなければ、叫んだことにより誰かが救ってくれることもあったでしょう。ダビデはここで敵が『主に叫ん』だと言っています。異邦人はそれぞれ自分たちの神々を持っていますから、ヤハウェ神に叫び求めるということはまずなかったでしょう。苦しみに陥った際、異邦人は自分たちの神々―それは偽りの神々なのですが―に叫び求めたはずです。つまり、ここで『主に叫ん』だと言われている敵とはダビデと同じ民族であるイスラエル人だと分かります。そのイスラエル人とはサウルでしょう。何故なら、この歌は、ダビデがサウルから助け出された際に歌われた歌だからです。確かにサウルは『主に叫ん』だのですが、『答えはなかった』のです(Ⅰサムエル28:6)。このサウルを含めた敵たちを、ダビデは神によりことごとく打ち負かしたのです。ここでダビデはその敵たちを『地のちり』また『道のどろ』と表現しています。これはダビデに打ち負かされる敵たちの惨めさを言い表しています。このように言われている43節目の箇所では強調の二重表現が用いられています。

【22:44~46】
『あなたは、私の民の争いから、私を助け出し、私を国々のかしらとして保たれます。私の知らなかった民が私に仕えます。外国人らは、私におもねり、耳で聞くとすぐ、私の言うことを聞き入れます。外国人らはしなえて、彼らのとりでから震えて出て来ます。』
 神がダビデの敵を屈服させて下さったので、ダビデはその敵どもを支配することとなりました。つまり、ダビデとは王の王―大王―だったわけです。ローマも多くの国を打ち破って、それらの国の王を支配していました。日本も第二次世界大戦で敗北したのでGHQの支配下に置かれることとなりました。ダビデがどのぐらいの民族を支配していたかはよく分かりません。その数は非常に多かったと思われます。このようにダビデは『私の知らなかった民』を支配していました。『私の知らなかった民』とは異邦人のことです。彼らはダビデに『仕え』ました。つまり、異邦人たちはダビデとそのイスラエル国に税を納め、聞き従い、協力しなければいけませんでした。その異邦人たちはダビデに『おもねり』、ヘコヘコしていました。これは神が彼らの心にダビデへの恐れを植え付けられたからなのです。このため異邦人は『耳で聞くとすぐ、私の言うことを聞き入れま』した。この逆の場合、つまりダビデが異邦人にヘコヘコして聞き従うということはありませんでした。彼らには臆病な精神が与えられていましたから、ダビデが呼び寄せると、自分たちの『とりでから震えて出て来ま』した。これは神が敵どもをダビデの手に渡して下さったからです。ダビデに呼び寄せられたのにもかかわらず、異邦人が自分たちの『とりで』に留まり続けることは出来なかったでしょう。何故なら、そうすればダビデに反発していると見做され、ダビデから罰される可能性があっただろうからです。

 ダビデがこのように諸国を支配できたのは、神がダビデの敬虔に対し祝福を与えて下さったからです。律法では敬虔な者が諸国を凌駕し支配すると約束されています。この通りです。『もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。』(申命記28:1)ですから、もしダビデが敬虔でなければ、神もダビデを諸国の上に引き上げておられなかったはずです。その場合、士師時代のように、ダビデは敵から支配されていたはずです。要するに支配は敬虔さと祝福にかかっています。聖徒たちは、支配を望むでしょうか、それとも屈従を望むでしょうか。前者を望むのであれば神に喜ばれる敬虔さがなければなりません。

 このようなダビデの強大な支配力は、キリストを示しています。この箇所で言われているのはキリストについてのことでもあるのです。つまり、この箇所における対象は2つとなります。ここでダビデのことだけが言われていてキリストについては預言されていないとか、逆にここでキリストの預言がされているもののダビデのことは何も言われていないなどと考えるのは間違っています。キリストも、ダビデが諸国の民を支配したのと同様、やはり諸国の民を支配しておられます。キリストの場合は、ダビデが支配した量と種類を遥かに上回る支配です。今の世界を見るとどうでしょうか。全世界にキリストを信じる神の民がいます。その人々は量も種類も多いのです。ですから、キリストはダビデよりも遥かに優る支配を為しておられることが分かります。これからもキリストは諸国の民を支配し続けられます。これまで2000年の間がそうであったのと同様に、です。この通り、ダビデが大きな支配力を持てたのは、キリストとその支配を予表していました。もしダビデがキリストを示す存在でなければ、恐らくこのような支配力はダビデに与えられていなかったかもしれません。

【22:47】
『主は生きておられる。』
 これは誓いの言葉です。ダビデはこのように言いたいのです。「生きておられる神が私の言う言葉を今、まざまざと聞いておられる。私はその神の御前で語るのだ。だから、私が言うことに嘘や偽りは決してない。もし私が口にすべきでない事柄を口にしたならば、それを聞いておられる神から罰せられても構わない。」この誓いの言葉は、旧約聖書で多く出て来ます。サウルもこのように言って誓いました(Ⅰサムエル19:6)。このように言われるのを聞いて、イスラエル人はそれがどのような意味であるか誰でも理解していたはずです。しかし、今の時代でもこのような誓いの言葉を聖徒たちが使っていいものでしょうか。これは全く問題ありません。たとえ今の時代でこのように言って誓ったとしても、神の御前で問題は何も生じないはずです。ただ聖書的でない国や社会であれば、このように言っても人々から全く理解されることがないでしょう。例えば今の日本でこのように言ったとしても、ほぼ全ての日本人は何を言っているのか理解できないはずです。教会の中で言うのであれば話は別かもしれません。その教会でこの言葉の意味がしっかり教えられているのであれば、聖徒たちの間では何が言われているのか理解できるでしょう。しかし、その教会が教えていなければ、たとえこのように言っても理解されないでしょう。「一体何を言っているのだろうか。」とか「この言葉はどういう意味なのか?」などと思われてしまうはずです。

『ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの岩なる神。』
 神はダビデの『岩』であられました。この『岩』は詳しく言えば『救いの岩』です。『救いの岩』とはどういった意味でしょうか。これは神が、ダビデを堅固な岩により守り救われるようにして救われたということです。誰かが決して揺るがない岩に堅く立っていたとすれば、その人は大嵐や大波や地震といった現象から守られるでしょう。そのようにダビデも、敵という大嵐また大波また地震から、神が守り救っておられたのです。ですから、ここで『岩』と言われているのは全く象徴としての表現です。神が実際の岩であるというのではありません。物質を超越した無限の神を岩にまで引き下げるのは、神への侮辱です。しかし、ここでダビデが言っているように、分かり易さのため神を象徴として例えるのであれば許されます。聖書にはこのような象徴表現が沢山あります。この神を『岩』として持っているのはダビデだけではありません。あらゆる聖徒がダビデのように神を『岩』として持っています。それゆえ、私たちはこの神をこそ自分の『岩』とすべきです。そのようにするのは神に喜ばれ、私たちにとっても幸いなことです。

 ダビデはこのような神を『ほむべきかな』また『あがむべきかな』と言って褒め称えています。これは神がダビデを御恵みにより救い出して下さったからです。もし高貴な権威者から非常に大きな恩恵を受けた人がいたとすれば、その人はその権威者を評価・称賛することでしょう。人間の権威者でさえこうであれば、ダビデが神という『救いの岩』を賛美したのは尚のことでした。ここで『ほむべきかな』また『あがむべきかな』と言われている言葉の意味は一緒です。これは二重表現であり、神が賛美されるべきであるということを強調して言っているのです。

 私たちもダビデのように言って神を賛美すべきでしょう。「神が賛美されますように。」など言い方は間違っていたり不敬虔だったりしなければ大丈夫です。そのようにして神を称揚するのは敬虔で良いことなのです。そのようにする人の霊は強くされることでしょう。

【22:48】
『この神は私のために、復讐する方。』
 ダビデは敵から、不当に憎まれ、酷く迫害され、何度も殺されかけました。つまり、ダビデは被害者でした。ダビデを殺そうとする敵は加害者また犯罪者でした。神はこのような敵をダビデのために復讐されました。つまり、敵たちは敗北し、滅び去り、またダビデに服しました。これは、ちょうど親が獣や害虫に襲われている子どもを助け出すのと似ています。このように神は『復讐する方』です。これは聖書の全体が教えていることです。エレミヤ書でも『主は復讐の神であって、必ず復讐される。』と言われています。このため、私たちが自分で私的な復讐をすることはできないのです。それはレビ記でこう書かれている通りです。『復讐してはならない。』もし私たちが私的な復讐を勝手にするのであれば、それは神のものを奪い取ることに他なりません。何故なら、申命記で神はこう言っておられるからです。『復讐と報いは私のもの。』もし私たちが私的な復讐をするならば、それは罪となります。その場合、神は罪に報いられますから、私たちが神から復讐を受けてしまうことになります。