【Ⅱサムエル記22:48~23:5】(2023/05/28)


【22:48】
『諸国の民を私のもとに下らせる方。』
 神は『諸国の民』をダビデの支配下に置かれました。先にも述べた通りダビデは大王でしたが、ダビデが多くの国と民族を支配したのは、ダビデ自身の力にはよりませんでした。それはこの箇所からも分かる通り、神の御恵みによりました。もし神が働きかけておられなければ、ダビデは恐らく王を支配する王になれていなかったでしょう。ここで『諸国の民』と書かれているのは、つまりパレスチナの周囲一帯にいた異邦人のことです。ダビデの場合、これが文字通りの意味であると解することは難しいでしょう。何故なら、ダビデが王の王であるといっても、中国人や日本人やアメリカ大陸にいる異邦人までも従わせたのではなかったはずだからです。そもそもダビデの時代のパレスチナでは、中国や日本のことはほとんど感知されていなかったはずです。アメリカ大陸などはあることさえも知られていなかったでしょう。ですから、『諸国の民』という言葉は慣用的に捉えるべきです。それゆえ、ダビデが中国や日本などを治めていなかったとしても、神が『諸国の民を私のもとに下らせる方』という言葉に偽りや嘘は全くありません。

 先にも述べた通り、ダビデが『諸国の民』を支配できたのは、神が敬虔に歩んでいたダビデを祝福されたからでした。神に聞き従う者は、神という支配者のように支配することが出来るのです。つまり、神は御自分に忠実な者を祝福して高められます。一方、不忠実な者は祝福されず呪われます。このため、そのような者は支配される悲惨に陥るのです。このように聖徒の支配は神に従うことで与えられます。これはアメリカを見ても分かるはずです。アメリカにも多くの罪深い点はありますが、諸国の中でアメリカがもっとも信仰深いため、あのような強い力がアメリカに与えられているわけです。

 この箇所も、先に見た箇所と同様で、キリストが示されています。キリストの場合、その支配しておられる『諸国の民』という言葉は文字通りの意味となります。すなわち、キリストにおいてはダビデのようにこの言葉を慣用的に捉えるべきではありません。こういうわけで、ここの箇所もやはりキリストについて語られています。ここをダビデだけに限定して考えるのは誤っています。

【22:49】
『私の敵から私を携え出される方。あなたは私に立ち向かう者から私を引き上げ、暴虐の者から私を救い出されます。』
 敵はダビデを攻撃し、取り囲み、圧迫しようとしました。敵のダビデに対する願いは「死」でした。ダビデが「たまに」このような悲惨を味わったのではありません。「いつも」ダビデはこのような悲惨を味わっていました。しかし、神はこのようなダビデをいつも『携え出され』救っておられました。それは大変に素晴らしいことでした。だからこそ、ダビデはここでそのことを率直に告白しているわけです。もしそうしなければダビデは神に対し忘恩の徒となっていたかもしれません。このように告白するからこそ神の御恵みも明らかとなるからです。

【22:50】
『それゆえ、主よ。私は、国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名を、ほめ歌います。』
 ダビデは神の救いを受けていましたから、その救いを覚え、『それゆえ』と言って神の救いゆえ御名を賛美しています。ダビデは神に救っていただいたのですから、このように御名を褒め称えるのは当然の義務でした。私たちのうちで誰か命の恩人に対し称賛を捧げようとしない人がいるのでしょうか。恐らく、いないでしょう。そのようにダビデも自分に救いを下さった神を賛美したのです。ダビデが『国々の中で』と言っているのは、つまり神により服させた国々が周囲にいるのにもかかわらず、何も気にせず神を賛美したということです。それらの国々は偽りの神々を賛美していたでしょうから、真の神であられるヤハウェ神を賛美することはなかったでしょう。しかし、ダビデはこのような国々と従属関係を持っているのに、堂々と彼らの前で神を賛美したのです。つまり、ダビデはそれらの国々からの反発や批判を何も気にしなかったということです。この箇所では二重表現が用いられています。すなわち、『私は、国々の中であなたをほめたたえ』という部分と『あなたの御名を、ほめ歌います』という部分がそうです。

【22:51】
『主は、王に救いを増し加え、油注がれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。」』
 神はダビデを幾度となく救い出しておられました。ダビデは多くの戦いを経験しましたが、神が救って下さらない戦いは一つも無かったはずです。これはダビデがこの歌を作ってからも、ずっとそうだったでしょう。これはダビデが神に愛されていたからです。もしダビデが無限に戦うのだとしても、神はダビデを無限に救っておられたことでしょう。

 ここでダビデは、神が『油注がれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。』と言っています。確かにダビデは神から永遠の御恵みを受けています。この地上に生きていた時はいつも神から恵まれていましたし、天国に行ってからもやはり恵みをいつまでも受け続けるのです。ダビデと同じく神から恵みを受けると言われているダビデの『すえ』とは、キリストのことであられます。何故なら、聖書が述べる通りキリストはダビデの子孫として御生まれになられたからです。キリストも、ダビデがそうであるのと同様、神から『とこしえに恵みを施されます』。そえゆえ、キリストの王座はとこしえまでも堅く立ち続けるのです。

 こうしてダビデの歌は終わりました。この歌は、非常に素晴らしく聖なる内容です。この歌は記憶するに値します。ダビデはこの歌の他にも実に多くの歌を作りました。このようなダビデの歌が詩篇では多く収められています。前にも述べたことですが、この歌は詩篇にもほとんど変わらない内容で収められています。これはこの歌の重要性をよく示しています。この歌が聖書で2つも見られるというのは、自然にそうなったとか偶然ではありません。全てが意図されています。何故なら、聖書は神がお書きになられた書物だからです。神が意図してこの歌を聖書で2つ見られるようにしたというのは、この歌が重要であるという理由からでなくて何でしょうか。

【23:1】
『これはダビデの最後のことばである。』
 23章の2節目から7節目まで書かれているのは『ダビデの最後のことば』です。これが『最後』だというのはどういった意味でしょうか。これはダビデが語った霊的な言葉のうち最後に記録されたものだという意味であると考えられます。そうでなければ、これは文字通りの意味でダビデが最後に語った言葉、すなわち臨終の時に語った言葉だということでしょう。これはどちらの意味にも解せます。いずれにせよ、これがダビデの最晩年の末期に語られた言葉であることは間違いありません。

『エッサイの子ダビデの告げたことば。高くあげられた者、ヤコブの神に油そそがれた者の告げたことば。イスラエルの麗しい歌。』
 ここでダビデが『エッサイの子』と言われているのは、ダビデがエッサイから生まれたためです。父なくして子はありません。ダビデもエッサイが存在しているからこそ、エッサイから生まれて来ました。このようなわけで、聖書の多くの箇所では、子がその親の名前と共に書き記されているのです。これが『ダビデの告げたことば』であるというのは、つまり『主の霊』(Ⅱサムエル23章2節)がダビデを通して告げられたということです。それゆえ、この歌は神聖です。これはダビデが自分自身から語ったというのではありません。

 ダビデは神により『高くあげられた者』でした。すなわち、ダビデは無名の取るに足らない羊飼いだったのですが、神はこのようなダビデを王という最高の立場にまで『高くあげられた』のです。これは何という驚くべき上昇でしょうか。あたかも地から天に引き上げられたほどの上昇です。神がこのようにダビデを引き上げたのは、ダビデが小さい者だったからです。このダビデもそうですが、神は小さい者を選んで高く引き上げられます。これは小さい者であれば、高く引き上げられるべき理由をそのうちに持たないからなのです。その者が高くされるべき理由を自ら持たないのであれば、その者においてその者を高めて下さった神の栄光が現わされます。神はそのようになることを望んでおられます。というのも、神は御自分の栄光を求めておられるからです。また、このダビデは『ヤコブの神に油そそがれた者』でした。ダビデはイスラエルの民に知られていない異邦人の神々でなく、イスラエルが始祖の代から信じ拝んでいた神に油を注がれたと言っているのです。ダビデはこのように言うことで、自分に対する神の油注ぎがイスラエルでどれだけ正当なのか示そうとしています。何故なら、父祖も崇拝していた神がダビデに油を注がれたというのであれば、誰もダビデに対する油注ぎを認めないわけにはいかないからです。『油そそがれた』というのは、つまり王になるための任職のことです。

 23章2~7節に書かれているのは『イスラエルの麗しい歌』でした。『麗しい』というのは「愛聴されるべき」だということです。それは何故なのでしょうか。その理由は、これがダビデによる最後の言葉であり、そのため重要な歌であって、しかもその内容は神聖で真理だからです。それゆえ、私たちもこの歌を好むべきなのです。

 ここでは三重表現が使われています。すなわち、『エッサイの子ダビデの告げたことば。』という部分が一つ目、『高くあげられた者、ヤコブの神に油そそがれた者の告げたことば。』という部分が二つ目、『イスラエルの麗しい歌。』という部分が三つ目です。ダビデが語ったのは一つの歌でした。その一つの歌を、ここでは3通りの言い方により豊かな表現で示しているわけです。

【23:2】
『「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。』
 ダビデは『主の霊』により語っていました。それゆえ、ダビデの言葉は全く霊感されていました。それは神の御言葉でした。ですから、私たちは神がダビデを通して語られた言葉を、聖なる神託としなければなりません。このような聖なる言葉がダビデ『の舌の上にあ』りました。神の言葉は決して失われるべきではありません。このため、神がダビデを通して語られた御言葉は、特に2つのサムエル記および詩篇において多く記録されているわけなのです。

【23:3】
『イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。』
 神がダビデに『仰せられた』御言葉は、この節の後半から4節目までに書かれています。神がダビデに仰せられたのは、実際の音声によったと思われます。しかし、それは恐らくダビデにだけ認識される音声だったと考えられます。またその音声は間違いなくヘブル語によりました。神はダビデに対しヘブル語を使われたのです。何故なら、ダビデはヘブル人であったからです。もしダビデがヘブル語を使うヘブル人でないか、もしくはヘブル人であってもヘブル語を使用していなければ、神はダビデが理解できるヘブル語でない言語により語りかけておられたでしょう。この箇所でダビデは神を『岩』とも言っていますが、神が『岩』であるというのは既に見た通りのことです。また、ここでは二重表現が用いられています。すなわち、『イスラエルの神は仰せられた。』という部分が一つ目であり、『イスラエルの岩は私に語られた。』という部分が二つ目です。

【23:3~4】
『『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。』』
 『義をもって人を治める者』と言われていますが、『義』とは神の義のことであって、これは神の義が示された律法のことです。律法によって統治するか、理性の導くままに統治するか。統治にはこの2つしかありません。律法によるのであれば理性で好き勝手な統治はできず、理性によるのであれば律法は蔑ろとされます。前者のほうを神が望んでおられるのは明らかです。『神を恐れて治める者』とは、つまり神の命令によって統治する者のことです。何故なら、ソロモンは命令遵守と神への恐れを結び付けているからです(伝道者の書12:13)。それは、つまり罪を犯さないで統治することです。それはヨブ記にこう書かれているからです。『見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。』(28章28節)モーセもイスラエル人に対しこう言いました。『また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。』(出エジプト記20章20節)ここで言われているこの2つの言葉は、同一の人物像です。すなわち、『義をもって人を治める者』とは『神を恐れて治める者』であり、『神を恐れて治める者』とは『義をもって人を治める者』です。この2つは別々の人物像なのではありません。

 このように敬虔な統治者は『太陽の上る朝の光』に例えられています。そのような光は快い輝きです。また、敬虔な統治者はここで『雨の後に、地の若草を照らすよう』だとも例えられています。これもやはり心地良いことです。つまり、義をもって統治する者は、神の御前で非常に喜ばしい統治者だということです。

 ダビデは正にそのような統治者でした。つまり、ここで『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者』と言われているのはダビデのことです。これは聖書を見れば分かることです。ダビデは、ナタンから強欲な者の話を聞かされた際、その強欲な者が律法に基づいて処罰されるよう宣言しています(Ⅱサムエル12:6)。このことから、ダビデが律法すなわち神の義により統治していたことは明らかでしょう。

 今の時代でこのような統治をしている国また統治者が見られるでしょうか。ただの一つも見られません。どの統治者も理性に導かれるままの統治をしているだけです。神の義による統治をしている人など全くいない状況です。ですから、『御心が天で行なわれるよう地でも行なわれる』ということが国家においてあまり実現していないのです。これは非聖書的なことです。私たちはダビデのような統治者が聖徒たちの中から現われるのを願うべきでしょう。これまでの時代でそのような統治者はコンスタンティヌス大帝やカルヴァンがいました。こういった統治者は、聖徒たちが満ちている国家でないとなかなか現われにくいでしょう。

【23:5】
『まことにわが家は、このように神とともにある。』
 ここでダビデが言っている『家』とは、イスラエル国家を指します。イスラエル国家を『家』と呼ぶのは、聖書において通例のことです。ダビデの王家も、もちろんですが「家」と呼ぶことができます。しかし、ここでの『家』はダビデ王家というよりイスラエル国家のことだとすべきでしょう。この『家』であるイスラエル国家は『神とともにあ』りました。それはダビデが神と共に歩んでいたからです。ダビデはイスラエル国家を、家の主人のようにして統治する支配者でした。またダビデはイスラエル国家と一体であり、そのトップに立つ頭でした。このため、神と共に歩んでいたダビデの治めるイスラエルも、ダビデがそうだったのと同様、神と共に歩んでいたわけです。それゆえ、もしダビデが神と共に歩んでいなければ、ダビデの治めるイスラエル国家も神と共に歩めてはいなかったでしょう。ダビデが生きている間中ずっとイスラエルは『神とともにあ』りました。何故なら、神はダビデが死ぬまでずっとダビデと共におられたからです。

 統治者である人は、神と共に歩むのがいいのです。そうすればその人の治める国や地域は『神とともにある』こととなるからです。というのも、神はその統治者を通じてその国や地域に働きかけるのだからです。一家の主人である人も、神と共に歩むのがいいでしょう。そのようにすれば、その家庭も『神とともにある』こととなるからです。家庭とは有機的統一体であって、神は主人を通じてその家庭に働きかけられます。何らかの集団のリーダーである人も、やはり神と共に歩むべきです。そうすればその集団は『神とともにある』こととなります。何故なら、リーダーとは全体という身体を代表する頭なのですから。