【Ⅱサムエル記23:5~23】(2023/06/04)


【23:5】
『とこしえの契約が私に立てられているからだ。』
 『とこしえの契約』とは何のことでしょうか。これはダビデとその子孫に王座が決して永遠に消え去らないという契約です。その子孫とはキリストのことです。この『とこしえの契約』は既に実現しています。ダビデの子孫であるキリストは既に現われたからです。また、その契約はこれからもずっと有効であり続けます。そえゆえ、キリストの王座はいつまでも堅く立ち続けます。ダビデはこの『とこしえの契約』が実現しているのを決して見れませんでした。すなわち、神はダビデが確認できない契約をダビデに与えられたのです。しかし、ダビデは信仰によりこの契約が必ず実現されることを疑いませんでした。

『このすべては備えられ、また守られる。』
 『このすべて』とは何でしょうか。これは先に見た『義をもって人を治める』(Ⅱサムエル23章3節)統治および『とこしえの契約』(Ⅱサムエル23章5節)のことでしょう。ダビデが『このすべて』と言っているからには、前の箇所を見ればそれが何なのか分かるはずです。実際に前の箇所を見るならば、『このすべて』とは今述べた通りのこととしか考えられないのです。この2つはダビデに『備えられ』た神からの御恵みです。つまり、義なる統治の力も永遠の契約も、ダビデの功績や努力によって神から与えられたのではありませんでした。それはただただ神の一方的な善意により与えられた御恵みなのです。また、この2つは『守られ』ました。つまり、統治の力も永遠の契約も、ダビデから取り去られることはありませんでした。神がその2つをダビデに保たれるよう守られたからです。

『まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。』
 ダビデは、神によりいつも『救い』出されていました。またダビデはいつも神に救いを『願い』求めていました。神は、ダビデにおけるこの救いとその願いを、『すべて、育て上げてくださ』いました。つまり、神はダビデの救いと救いの願いを、時間が経つにつれますます確かにされました。ちょうど植物が成長して育つことで、ますます確かとなるように。ダビデはここで『育て上げてくださる』と言って、植物を念頭に置いていると思われます。神は、ダビデ以外の聖徒たちにも、その『救いと願いとを、すべて、育て上げてくださ』います。それゆえ、私たちは神に信頼しつつ歩むべきなのです。

【23:6】
『よこしまな者はいばらのように、みな投げ捨てられる。手で取る値うちがないからだ。』
 『よこしまな者』は、ダビデが神により救い出されたのとは異なり、神から捨てられて滅び失せます。そのような者はここで『いばらのよう』な『手で取る値うちがない』存在だとされています。私たちの前に無価値な茨があったとすれば、恐らく私たちはその茨を取って投げ捨ててしまうでしょう。植物を研究している人などであれば話は別でしょうが、ここでそのような場合は考えなくても問題ありません。普通の場合、誰が茨などに構っていられるでしょうか。それと同じで『よこしまな者』も捨てられてしまうのです。そのような者は神から呪われています。それはダビデのような聖徒が祝福されているのと正反対です。そういった者は実に不幸です。しかしダビデのような者は神に祝福されるので幸いです。

【23:7】
『これに触れる者はだれでも、鉄や槍の柄でこれを集め、その場で、これらはことごとく火で焼かれてしまう。」』
 『よこしまな者』(Ⅱサムエル23章6節)は、茨が集められて焼き滅ぼされるように、神から捨てられて滅びてしまいます。神は邪悪な者を呪い滅ぼされるのです。しかし、神はその裁きを人により行なわせられます。ですから、邪悪な者たちには人がやって来て、その人たちにより滅ぼされてしまうのです。この箇所で言われているのは紀元1世紀のユダヤ人のことだと見ることができます。何故なら、紀元1世紀のユダヤ人はここで言われている通り、本当に『ことごとく火で焼かれてしまう』ことになったからです。神はユダヤ人への裁きをローマ人により実現されました。これは当時のユダヤ人がキリストを否んで退けるほどに『よこしまな者』となっていたからでした。

 『よこしまな者』となるならば、誰でも茨のように滅ぼされてしまいます。しかしそのような者とならなければ呪われて滅ぼされることはありません。ですから、私たちは『よこしまな者』とならないようにすべきです。まさか神に罰されて滅びたいと思う人もいないはずです。

 ダビデ最後の言葉はこうして終わりました。これらの言葉は、最後の言葉に相応しい冗長さがない研ぎ澄まされた内容です。これはダビデが神の霊により語った聖なる素晴らしい内容の言葉です。

【23:8】
『ダビデの勇士たちの名は次のとおりであった。』
 この箇所から『ダビデの勇士たちの名』が紹介されています。それらの勇士は強者ばかりでした。政治が過熱している時代にあっては、優秀な政治家や勇士が多く現われるものです。ダビデの時代は正にそのようでした。カエサルとキケロがいた時代のローマもそのようでした。

『補佐官のかしら、ハクモニの子ヤショブアム。彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した。』
 まずは槍使いの勇士であった『ハクモニの子ヤショブアム』が紹介されます。『彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した』のですが、これは「一振りで」という意味ではないでしょう。というのも一度に800人を刺し殺せるほど長い槍など無かったはずだからです。これは「一度の戦闘で」または「一回の場面で」という意味でしょう。一度に800人も刺し殺すというのは凄まじい数です。それが凄まじいからこそ、ここでこのように記録されているわけです。このヤショブアムは神から戦いの力を受けていたでしょう。この「800」という数字に象徴的な意味はないはずです。

【23:9~10】
『彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル。ダビデにつく三勇士のひとりであった。彼がペリシテ人の間でそしったとき、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。そこで、イスラエル人は攻め上った。彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した。主はその日、大勝利をもたらされ、兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。』
 ここで『ダビデにつく三勇士』と言われているのは、前の箇所で見た『ハクモニの子ヤショブアム』(Ⅱサムエル23章8節)と、ここで言われている『アホアハ人ドドの子エルアザル』と、後の箇所で出て来る『ハラル人アゲの子シャマ』(Ⅱサムエル23章11節)の3人です。この3人はイスラエル軍の中で最強の3人でした。神が彼らに力を与えておられたのです。しかし、彼らもダビデには及ばなかったと思われます。ダビデにこのような3人の強者が付いていたのは、キリストにいつも主要な3人の使徒であるヤコブとペテロとヨハネが付いていたのと重なります。ダビデはこのような点でもキリストを予表していたのかもしれません。そのようである可能性は非常にあります。

 『アホアハ人ドドの子エルアザル』は、敵である『ペリシテ人の間でそし』りました。ペリシテ人であるゴリアテがイスラエルを誹ったのですから(Ⅰサムエル17:26)、この時のペリシテ人もイスラエルを誹っていた可能性は高いでしょう。エルアザルがペリシテ人を誹ったのは問題ありませんでした。何故なら、ペリシテ人とはイスラエルの宿敵であり忌まわしい存在だったからです。しかし、ペリシテ人がイスラエルを誹っていたとすれば、それは罪でした。何故なら、イスラエルとは神の聖なる陣営だからです。エルアザルがペリシテ人を誹ると、当然ながらペリシテ人は怒り、イスラエルと戦うため集まりました。こうしてイスラエルとペリシテ人との戦いが起こります。これは神が起こされた戦いでした。それは神がペリシテ人を罰して打ち砕かれるためだったのです。戦いが起こると、エルアザルが単独で敵の群れを打ちのめしてしまいました。これは神がエルアザルと共にいて戦っておられたからです。この通り、神が共におられるならば数は関係なくなり、単独で誰かが戦っても『大勝利』をいただけるものなのです。このため、エルアザル以外の兵士たちがエルアザルのところに『引き返して来た』際は、『ただ、はぎ取るため』だけの状況となっていました。もう戦って敵を打ち負かす余地が全く無くなっていたのです。

【23:11~12】
『彼の次はハラル人アゲの子シャマ。ペリシテ人が隊をなして集まったとき、そこにはレンズ豆の密生した一つの畑があり、民はペリシテ人の前から逃げたが、彼はその畑の真中に踏みとどまって、これを救い、ペリシテ人を打ち殺した。こうして、主は大勝利をもたらされた。』
 ここでは三勇士の一人である『ハラル人アゲの子シャマ』が紹介されています。ある時、ペリシテ人は『レンズ豆の密生した一つの畑』の場所に集まったのですが、イスラエル人はそのペリシテ人の前から退却してしまいました。ところがシャマだけは逃げず、単独でペリシテ人と戦います。神がこのシャマと共に戦われたので、シャマは敵の群れを打ち負かすことができました。こうしてイスラエル軍はシャマを通して神から勝利を得たのです。この通り、神が働かれるならば、たとえ単独であったり少人数であったりしても、敵の群れに打ち勝つことができます。戦いでは兵士の数というより神が勝利させる陣営こそ勝利するものなのです。

【23:13~17】
『三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。』
 これまでに見た3人の勇士は、ダビデの望みを叶えるべく、危険を冒してベツレヘムまで行き、そこの水をダビデのもとに持ち帰って来ました。ダビデはただ気儘に『だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。』と言っただけだったかもしれません。まさか三勇士たちが自分の言った通りにするなどとは予想していなかったかもしれません。ところが、三人の勇士はダビデのため水を取りに出かけて行ったのです。そのようにして持ち運ばれた水を、ダビデは決して飲もうとはしませんでした。何故なら、その水は『いのちをかけて行った人たちの血』と同等の価値があったからです。もしダビデがその水を飲めば、ダビデは三勇士の命を軽んじたことになるのです。ですから、ダビデはその水を主の前に注いで記念としました。ダビデがこのようにして飲むために持って来られた水を注いだのは、その水を無駄にすることではありませんでした。というのも、その水は主の御前に捧げられたのだからです。この時のダビデは戦争をしていたのですから、喉が非常に渇いており、そのためこのようなことを言ったのかもしれません。しかし、三人の勇士が自分の言った通りにすることを予め知っていたとすれば、ダビデはベツレヘムの水を誰かが持って来てくれたら…などと口にしていなかったと思われます。

【23:18~19】
『ツェルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイ、彼は三人のかしらであった。彼は槍をふるって三百人を刺し殺し、あの三人とともに名をあげた。彼は三人の中で最も誉れが高かった。そこで彼らの長になった。しかし、あの三人には及ばなかった。』
 続いて紹介されるのは『ツェルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイ』ですが、アビシャイは3勇士ではありませんでした。先に見た3人の勇士はそこで初めて見ましたが、この『アビシャイ』は私たちが既にもうよく知っている人物です。ここで言われている通り、アビシャイは3勇士の上に立つボスでした。3勇士は非常な力量を主により持っていましたが、しかしアビシャイを立てて彼に従っていたのです。このため、アビシャイは3勇士よりも『誉れが高かった』のです。このアビシャイは戦いの際、『槍をふるって三百人を刺し殺』すという戦果を挙げました。これは神がアビシャイに戦いの力を与えておられたからです。しかし、このアビシャイもあの3勇士の戦果には及びませんでした。確かにアビシャイは凄い戦果を挙げましたが、ヤショブアムはアビシャイより500人も多く刺し殺したのです(Ⅱサムエル23:8)。他の2人の勇士は神により単独でイスラエルを勝利させましたが、アビシャイは恐らくそのような戦果を挙げていなかったと思われます。力量が優っていなくても誉れでは優るということは珍しくありません。例えば、ヨセフの支配力はパロより優っていましたが、このヨセフも地位という点ではパロに敵いませんでした。またセネカはあらゆる良い点で皇帝ネロを凌駕していましたが、皇帝という名の輝きだけはセネカが持とうにも持てないものでした。アリストテレスもアレクサンドロスより学識と知恵において遥かに優っていましたが、権威という面ではアリストテレスよりもアレクサンドロスのほうが上回っていました。アビシャイが3勇士に続いて紹介されているのは、意味を持っていそうです。これはアビシャイよりも3勇士のほうが神とイスラエルにとって多く益だったということを、その記述の順番において示しているのかもしれません。

【23:20~23】
『エホヤダの子ベナヤは、カブツェエルの出で、多くのてがらを立てた力ある人であった。彼は、モアブのふたりの英雄を打ち殺した。また、ある雪の日に、ほら穴の中に降りて行って雄獅子を打ち殺した。彼はまた、あの堂々としたエジプト人を打ち殺した。このエジプト人は、手に槍を持っていた。彼は杖を持ってその男のところに下って行き、エジプト人の手から槍をもぎ取って、その槍で彼を殺した。エホヤダの子ベナヤは、これらのことをして、三勇士とともに名をあげた。彼はあの三十人の中で最も誉れが高かったが、あの三人には及ばなかった。ダビデは彼を自分の護衛長にした。』
 5番目に紹介されるのは『エホヤダの子ベナヤ』です。このベナヤが、前の4人よりも後に書かれているのは、ベナヤがその4人よりも重要性において劣っているということでしょう。私たちが今見ているこの箇所では、記述の順序に明らかな意味があります。しかし、ベナヤがあの4人よりも重要でないからといっても、重要な人物であることに変わりはありません。ただあの4人と比較すれば劣っているというだけのことです。このベナヤも『多くのてがらを立てた』人物でした。神が彼に力の御恵みを与えておられたのです。まずベナヤは『モアブのふたりの英雄を打ち殺し』ました。この英雄の詳細については分かりませんが、英雄を2人も打ち倒すというのは、かなりの手柄です。次にベナヤは『ほら穴の中に降りて行って雄獅子を打ち殺し』ました。これはベナヤの力と勇敢さをよく示しています。彼が何匹の雄獅子を打ち殺したのかは分かりません。彼が洞穴の猛獣を打ち殺したのは、その日が『雪の日』だったためかもしれません。つまり、ベナヤと周囲の人々は洞穴で火による暖を取りたいと思ったのですが、そこには猛獣がいたので、洞穴に入るためその猛獣を打ち殺したということなのかもしれません。また、ベナヤは『あの堂々としたエジプト人を打ち殺し』ましたが、このエジプト人の詳細についてはよく分かりません。ベナヤは杖だけを持ってそのエジプト人の場所に行ったのですが、エジプト人から槍を奪い取り、そのエジプト人を打ち殺しました。このような行ないを「武勇伝」というのです。23節目で書かれている『あの三十人』とは、続く24節目から39節目までに書き記されています。これはダビデに従う兵士たちの中で最も優秀だった30人のことなのでしょう。このベナヤはその30人の中で『最も誉れが高かった』のですが、これは主の御恵みによりました。しかし、このベナヤも『あの三人には及』びませんでした。というのも、先の箇所を見れば分かる通り、あの3人のほうがベナヤよりも大きな戦果を挙げたからです。いつの時代であれ往々にして成果が判断の基準となるものです。彼はダビデの『護衛長』に選ばれるという恵みに与かりました。彼がダビデの護衛長にされたのは、彼が強かったということ、ダビデから信頼されていたということ、神の御恵みを強く受けていたということ、この3つを示しています。彼は『ケレテ人とペレテ人の上に立つ者』(Ⅱサムエル8:18、20:23)でもありました。