【Ⅱサムエル記24:8~24】(2023/06/18)


【24:8】
『こうして彼らは全土を行き巡り、九か月と二十日の後にエルサレムに帰って来た。』
 このようにしてヨアブたちは、不完全にしてであったものの、人口調査のため旅を完了させました。ヨアブは嫌々ながら旅をしたはずです。しかし、ダビデの命令には逆らえなかったので仕方ありませんでした。また神も、罪深い命令を通し、ダビデの真の姿を確かめようと望んでおられたのです。ヨアブたちが調査に要した期間は『九か月と二十日』でしたが、これはかなりの期間です。もしただ行って帰るだけの旅であれば、恐らく1~2か月ぐらいで済んだかもしれません。しかし、今回の旅は入念な調査が主目的でしたから、これほどの期間がかかったのです。この『九か月と二十日』は約「290」日ですが、この数字に象徴的な意味はないはずです。

【24:9】
『そして、ヨアブは民の登録人数を王に報告した。イスラエルには剣を使う兵士が八十万、ユダの兵士は五十万人であった。』
 こうしてダビデのもとに戻ったヨアブは、調査した登録人数をダビデに報告します。この報告をダビデは切に望んでいたのです。高慢な思いでほくそ笑むために。『イスラエル』に兵士は全部で『八十万』人いました。『イスラエル』とは、ユダ族を除いたイスラエルの諸部族を意味します。『ユダ』の兵士は『五十万人』でした。『ユダ』は単にユダ族だけを意味しています。この通り、イスラエルには合計で130万の兵士がいました。これはダビデの時代を考えるならばとてつもない数です。というのも、ダビデの時代にはまだ世界人口でさえ2億人に達していなかったからです。ダビデから1000年後の時代になって、世界はようやく2億人ぐらいの人口となりました。2021年の時点で3.3億人の人口を持つアメリカでさえ、兵士の数は約150万人です。このように考えると、イスラエルにどれだけ兵士がいたかよく分かります。この時代のイスラエルが軍事大国だったことは間違いありません。また、このイスラエル軍は恐らく強者揃いの集団だったと思われます。先に見た通りイスラエル軍に『三十七人』(Ⅱサムエル23章39節)もの勇士がいたというのは、イスラエル兵が全体的に強かったことを示していると私には思われます。イスラエル軍が数においても質においても優れていたとすれば、諸国を容易く圧倒することが出来たでしょう。イスラエルはそのようにして諸国を支配する国となったのでしょう。つまり、神が兵士の力を豊かに与えておられたというわけです。しかし、ダビデがその兵士たちを高慢な思いで数えたりするのは非常に罪深いことでした。

【24:10】
『ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」』
 ヨアブの報告を聞いてから、ダビデは調査のことで『良心のとがめを感じ』ました。ダビデは自分が単なる欲望に基づいて調査させたことをよく知っていたからです。まだ調査結果を知る前は、その罪悪感が心の奥底に抑え込まれたままの状態でした。しかし、実際に調査結果を聞くと、その罪悪感が心の表面にまざまざと押し上がって来たのです。これは殺人者と同じことです。殺す者は、まだ殺していないのであれば、殺人が悪だと分かっているものの、殺人における罪悪感をそれほど強く感じたりしません。その罪悪感はまだ心の深い場所で微睡んだ状態だからです。しかし、実際に殺すならば、その罪悪感がはっきり目を覚ますので、非常な後悔と不安に満ちることとなります。この時のダビデは取り返しの付かないことをしてしまったと感じたはずです。殺人者が殺人という取り返しの付かないことをしてしまったと感じるのと同じです。このため、ダビデは神の御前でこの罪を認め、悔い改めの態度を示しました。ダビデがこのようにしたのは間違っていませんでした。しかし、そもそもダビデは最初からこのような罪を犯そうとすべきではありませんでした。この時にダビデは自発的に悔い改めをしました。既に見た通り、ウリヤ事件の際は、預言者ナタンに責められてから悔い改めたのです。今回の件でも預言者はダビデのもとに来ますが、それはダビデが悔い改めてからでした(Ⅱサムエル24:13)。

【24:11~13】
『朝ダビデが起きると、次のような主のことばがダビデの先見者である預言者ガドにあった。「行って、ダビデに告げよ。『主はこう仰せられる。わたしがあなたに負わせる三つのことがある。そのうち一つを選べ。わたしはあなたのためにそれをしよう。』」ガドはダビデのもとに行き、彼に告げて言った。』
 ダビデが罪深い調査を行なったので、神はその行為に対し怒られました(Ⅱサムエル24:1)。このため、神はダビデの行為に『神罰』(Ⅱサムエル24章25節)が下されることを決められました。これは神が悪に対して報いられる御方だからです。ダビデのような責任の重い重要人物が悪を行なった場合は特にそうなのです。神はその神罰を『三つ』用意され、ダビデがそのどれか一つを選ぶようにされました。神が3つの神罰を用意されたのは、ダビデの行為が必ず罰されねばならないということを示しています。何故なら、聖書において「3」は強調を意味するからです。神はこの神罰の件を『預言者ガド』に告げさせました。つまり、神が直にダビデに神罰のことで告げられたのではありません。これはウリヤ事件の時でも同じでした。神が直接的にダビデに語られなかったのは、この時のダビデが罪に傾く傾向を強く持っていたからなのかもしれません。神は『朝ダビデが起きると』、この件について預言者ガドに告げられました。ダビデが朝に起きてから告げられたのは、ダビデがその日にじっくりと神罰の選択をするためだったと思われます。というのも、預言者ガドが朝にこの件を聞いたならば、朝か昼頃にはダビデのもとに行けるからです。もしこれが夕方とか夜であれば、もう寝る時間なのですから、3つの神罰からどれを選ぶかじっくり考える余地はあまりなかったはずです。

【24:13】
『「七年のききんが、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたは仇の前を逃げ、仇があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に、何と答えたらよいかを決めてください。」』
 一つ目の神罰は、イスラエル国家に『七年のききん』が下されることです。これは神罰に相応しい災いです。ここで『七年』と書かれているのは、Ⅰ歴代誌21:12の箇所および七十人訳聖書では『三年』と書かれています。Ⅰ歴代誌と七十人訳聖書を考えるならば、実際の期間は『三年』だったと考えるべきかもしれません。ここで書かれている他の2つの神罰は、どちらも「3」(か月間/日間)ですから、飢饉の実際的な期間も「3」(年)だったとするのが自然です。この箇所で「三年」が『七年』と書かれているのは、筆写する際のミスでは決して無かったはずです。神が3年を7年と表記されたのだと思われます。それは「7」という表記により、神罰とその期間における完全性を示すためなのです。Ⅰ歴代誌と七十人訳聖書を見るならば、この見解は正しい可能性が非常に高いと言えます。神はここでの期間に象徴性を示そうとされたのです。ですから、一つの神罰だけ実際の期間ではなく、象徴的な期間として示すことを厭われなかったのです。二つ目の神罰は、ダビデが『仇』から『三か月間』逃げ続けることでした。これも神罰に相応しい悲惨です。ダビデが仇から追われるとしても、神はダビデを守られたでしょうから、ダビデは死んだり負傷したりしなかったことでしょう。しかし、逃げている最中はとてつもない悩みと心労に苦しむはずです。神はそのようにしてダビデに報いられるわけです。この神罰における『三か月』という期間は、実際の期間です。しかし、これも象徴性のため「七か月」という表記にすることが可能だったはずです。三つ目の神罰は、イスラエル国家に『三日間』の『疫病がある』ことです。これも正に神罰と言うべき災いです。『疫病』は、律法からも分かる通り、神が呪いの道具として用いる害ある細菌です。この神罰がイスラエル国家に下されても、ダビデは神の僕ですから、疫病の害を直接には受けなかったはずです。しかし、ダビデは疫病に苦しむ民を見て嘆かなければなりません(Ⅱサムエル24:17)。このようにして神はダビデに思い知らされるのです。これら3つの神罰は、どれもとてつもない悲惨です。ダビデはもし可能であれば、どの神罰も選びたくなかったことでしょう。しかし、ダビデはその罪に対する報いを受けるため、どれか一つを必ず選ばなければなりませんでした。預言者ガドはここで、ダビデに『よく考えて』どの神罰がいいか選ぶよう言っています。先に述べた通り、やはり神はダビデに『よく考え』る余地を与えるため、朝に預言者ガドを動かされたのです。これが夜であれば『よく考え』るのは難しかったかもしれないのです。

【24:14】
『ダビデはガドに言った。「それは私には非常につらいことです。主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません。」』
 この箇所でダビデがどれだけ神罰について考えたかは示されていません。ただダビデがガドに『言った』とだけ書かれています。この時のダビデの決定には揺らぎが無かったはずです。まずダビデはここで神から示された神罰が『非常につらいことで』あると言っています。これはもっともなことでした。しかし、ダビデは自分の犯した罪ゆえ、どうしてもどれか一つの神罰を選ばなければなりませんでした。ダビデは『主の手に陥ることにしましょう』とガドに言っています。これは3つ目の神罰を選んだということです。何故なら、『主のあわれみは深いから』です。三つ目の神罰を受けるならば、それは『主の手に陥ること』ですが、主は憐れみ深いので、たとえその神罰を受けたとしても、ダビデは無事なままでいられるのです。ダビデは絶対に『人の手には陥りたくありません』でした。何故なら、人間ことに敵は神のように憐れみ深くないのがほとんどだからです。ダビデはそのことを、サウルに迫害されていた経験から、よく知っていました。ですから、ダビデは敵から狙われるという二つ目の神罰を選ぶことが出来ませんでした。一つ目の神罰も、三つ目の神罰と同じで、『主の手に陥ること』です。しかし、ダビデは一つ目の神罰を選びませんでした。これは少し前にもう飢饉の苦しみを味わったばかりだったからなのでしょう。このため、ダビデは必然的に三つ目の神罰を選んだわけです。私たちも、人の手に陥るぐらいならば主の手に陥るようにせねばなりません。神は聖徒に人間が持つような残虐性を持ったりされないからです。勿論、そもそも私たちは神罰を引き起こすような悪を最初から行なうべきではないのですが。

【24:15】
『すると、主は、その朝から、定められた時まで、イスラエルに疫病を下されたので、』
 ダビデが3つの中から一つを選んだので、神は『その朝から』3つ目の神罰である『疫病』を下され始めました。この神罰が『朝から』下されたのは、2つのこと、すなわちガドが神の御言葉を受けてからすぐダビデのもとに向かったということ、またダビデはガドが来てからそれほど経たない間に神罰について決定したということを示しています。ダビデは朝から夕方または夜までじっくり長く考えることも出来たでしょう。しかし、ダビデはすぐに考えて決めたようです。その神罰が『定められた時』まで下されたというのは、先に見た『三日間』(Ⅱサムエル24章13節)のことです。この時に下された『疫病』がどのような種類の疫病だったかは、何も聖書で書かれていませんから分かりません。非常に悲惨な疫病だったことは間違いありません。

『ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。』
 こうして神は、ダビデが人口調査させた『ダンからベエル・シェバに至るまで』にいたイスラエル人を、疫病で打たれました。ダビデが調べさせたのと同じ地域にいる人々が死んだのは、ダビデに思い知らさせるためでした。この通り、罪と罪に対する罰は対応しているものです。この罰により『民のうち七万人が死』にました。これは実際の死者数ですが、「7」とありますから、この罰が完全であるということも示しているはずです。死んだ『七万人』の内訳については分かりません。これほどの人々が神罰で死んだのは、かなりのことです。このような大きな災いが下されたのは、ダビデの犯した罪が実に大きかったからです。ダビデは自分の犯した罪ゆえ、このような悲惨を味わうこととなりました。もし罪を犯していなければ、こんな苦しみは味わわずに済んだのです。このことから、私たちは罪を犯すことがどれだけ重大であるかよく悟るべきでしょう。

【24:16】
『御使いが、エルサレムに手を伸べて、これを滅ぼそうとしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、民を滅ぼしている御使いに仰せられた。「もう十分だ。あなたの手を引け。」主の使いは、エブス人アラウナの打ち場のかたわらにいた。』
 神は、疫病の罰を、『御使い』に下させておられました。つまり、御使いは害あるウィルスが人々に注がれるよう力と自由を神から受けていました。この御使いは、神の御心に基づき、人々に疫病を注いでいたのです。御使いとは、霊的な被造物であり、物質的な身体を持っていません。しかし、御使いはこの通り物質界に働きかけることが出来るのです。疫病を注いでいたこの御使いがどのような名前だったかは分かりません。また、この『御使い』はキリストとして解することも出来ます。

 この御使いは、エルサレム以外の場所にまず疫病を下していたようです。そして、遂に『エルサレムに手を伸べて、これを滅ぼそう』とするに至りました。エルサレムを最も後で滅ぼそうとしたのかもしれません。それまで『三日間』、このエルサレムには手が下されていませんでした。しかし、その時に神は『わざわいを下すことを思い直し』たので、この御使いに働きを止めるよう命じました。御使いは当然ながらこの命令に聞き従います。これはエルサレムにダビデがいたからでしょう。先に見た通り『主のあわれみは深い』(Ⅱサムエル24章14節)ので、主の僕であるダビデまで疫病により打たれるということはありませんでした。もし神が御使いにストップさせなければ、ダビデも疫病で死んでいた可能性が十分にありました。

 神が罰を止めさせた時、『主の使いは、エブス人アラウナの打ち場のかたわらにいた』のですが、『エブス人』とはエルサレムの原住民ですから、これはエルサレムの場所だったはずです。御使いはエルサレムにも疫病を注ごうと、エルサレムにまでやって来ました。しかし、そこで神からストップがかかったので、疫病の注ぎを止め、ずっとそこにいたわけです。

【24:17】
『ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」』
 ダビデは、『民を打っている御使い』を、実際に自分の目で見ました。これは実に恐ろしい光景だったはずです。この御使いはただ一人だけだったはずです。というのも、これまでに見た箇所から、疫病を下す御使いは一人だけだったようだからです。ダビデはこの御使いを見て、自分がどれだけ悪いことをしたか強く実感したはずです。自分の犯した罪のせいで、『羊の群れ』すなわちイスラエルの民衆が疫病で死んでいるのです。このような現実を見たダビデは強い罪悪感に満ちたはずです。このため、ダビデは神の御手が自分と自分の家族に下されるよう願い求めます。つまり、ダビデとその家族が疫病で死ぬようになるということです。ダビデは死ぬつもりでこう言ったに違いありません。神がダビデにこの御使いを見させたのは、ダビデがこのように言うためだったはずです。もしダビデが御使いを見ていなければ、このように言うことはなかったかもしれません。

【24:18~19】
『その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「エブス人アラウナの打ち場に上って行って、主のために祭壇を築きなさい。」そこでダビデは、ガドのことばどおりに、主が命じられたとおりに、上って行った。』
 ダビデは御手が自分に下されるよう懇願しましたが、神はダビデにそうされませんでした。これはダビデが真に悔いた態度を示したからです。先にも見た通り、『主のあわれみは深い』(Ⅱサムエル24:14)のです。主は憐れみ深いので、悔い改めた者に必要以上の厳しさで臨むことはなさいません。このため、主はガドを通し、ダビデが『エブス人アラウナの打ち場』に行き、そこで『主のために祭壇を築』くよう命じます。これはキリストを象徴する動物の犠牲により、ダビデが全く罪から清められるためです。ダビデは悔い改めたのですから、このような犠牲により、キリストの清めに与かるべきだったのです。この命令を受けたダビデは当然ながら命令通りに出かけました。

【24:20】
『アラウナが見おろすと、王とその家来たちが自分のほうに進んで来るのが見えた。それで、アラウナは出て来て、地にひれ伏し、王に礼をした。』
 ダビデが家来たちを連れてアラウナのもとに行くと、それを見たアラウナは、王の前でひれ伏して敬意を示します。このアラウナは王を尊ぶしっかりした人だったのでしょう。だからこそ、主の使いはこのアラウナの土地に留まっていたのです(Ⅱサムエル24:16)。この時に『家来たち』がどのぐらいいたかは分かりませんが、別に分からなくてもどうということはありません。また、この時はダビデたちがやって来たのを『アラウナが見おろ』したのですから、アラウナの土地は高い場所にあったことが分かります。

【24:21】
『アラウナは言った。「なぜ、王さまは、このしもべのところにおいでになるのですか。」そこでダビデは言った。「あなたの打ち場を買って、主のために祭壇を建てるためです。神罰が民に及ばないようになるためです。」』
 ダビデを出迎えたアラウナは、当然ながらダビデが何をしにやって来たのかと尋ねます。彼はダビデがどのような理由から来たのか全く分からなかったからです。ネロのような支配者でもない限り、無思慮にだったり暇だったりするからというので出かける支配者はいません。ダビデはアラウナに対し、神罰が止むためアラウナの地所を買い取りに来たと答えます。ダビデは神の命令ゆえ、どうしてもその場所で祭壇を建てねばならなかったのです。もしそうしなければダビデは神に背くこととなるのです。

【24:22~23】
『アラウナはダビデに言った。「王さま。お気に召す物を取って、おささげください。ご覧ください。ここに全焼のいけにえのための牛がいます。たきぎにできる打穀機や牛の用具もあります。王さま。このアラウナはすべてを王に差し上げます。」アラウナはさらに王に言った。「あなたの神、主が、あなたのささげ物を受け入れてくださいますように。」』
 ヴォルテールもそうでしたが、権力者を愛好する人は少なくありません。アラウナもそのような者の一人だったかもしれません。またアラウナは恐らく神を尊んでいたことでしょう。そして、イスラエルの国家を蔑ろにもしていなかったはずです。ですから、アラウナは、犠牲に使う物も全て含めて地所を差し上げると申し出ます。この申し出が異常だったとは思えません。神と王と国家を尊ぶ者であれば、誰でも喜んでこのようにするはずだからです。尊ぶ度合いが強ければ強いほど、そうです。ダビデは王でしたから、アラウナが全てをダビデに無料で差し出せば、大きな見返りがあることは明らかでした。しかし、アラウナはそのような見返りを考えず、純粋な心から差し出そうとしたはずです。アラウナがそのような者だったからこそ、御使いもアラウナの地所に留まっていたと考えられるからです。もしアラウナが邪な者であれば、御使いはそのような者の所有地にずっと留まっていなかったと思われます。

【24:24】
『しかし王はアラウナに言った。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。』
 ダビデはアラウナの申し出を拒み、自分自身で地所とそこにいる牛を買い取りたいと言います。このように言われたアラウナがどう反応したかは分かりません。しかし、ダビデがアラウナの地所と牛を実際に買ったことから考えれば、アラウナはすんなりダビデの求めに応じただろうと思われます。ここでは地所と牛を『銀五十シェケル』で買ったと書かれていますが、Ⅱ歴代誌21:25の箇所では『金のシェケルで重さ百シェケルに当たるもの』で買ったと書かれています。ダビデがこのようにしたのは正しいことでした。この時のダビデは自分自身で犠牲を持って来たアベルのようでした。もしダビデがアラウナに言われるままアラウナの物を捧げていたとすれば、それはカインのようだったのです。

 私たちもこのダビデのようにすべきでしょう。つまり、神に対して誠実であるべきだということです。不正をしたりいい加減な態度であれば神に喜ばれることはできません。