【Ⅱサムエル記24:25】(2023/06/25)


【24:25】
『主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。』
 キリストを指し示す動物の犠牲が捧げられたので、これまで三日間下されていた災いは、もう下されないようになりました。もしこの義性が捧げられていなければ、まだ疫病の災いが下され続けていたかもしれません。しかし、神はこの災いを『三日間』だけに定めておられたので、ダビデが三日目に犠牲を捧げるよう予定しておられたのです。この時のダビデは動揺と不安の中に僅かながら平安を感じていたでしょうか。鞭打ち刑が規定数に達したので刑から解放された犯罪人のように、恐れつつ辺りを見渡すような感じだったでしょうか。このようだった可能性もあります。

 犠牲が捧げられてから、神は『この国の祈りに心を動かされ』ました。神が祈りに『心を動かされた』とは、つまり祈りが聞き入れられたということです。これまでの三日間にも御民は神罰が取り去られるよう祈り続けていたはずです。しかし、犠牲が捧げられる三日目になるまでは祈りを聞いてもらえませんでした。何故なら、キリストを象徴する犠牲が捧げられないのであれば、ダビデの罪も清められないままだからです。聖書が教える通り、神は正しい者の祈りをこそ聞いて下さいます。私たちはこのことをよく弁えておくべきでしょう。「正しい者」とはキリストにより罪から清められた者のことです。

 Ⅱサムエル記の内容はここまでとなります。この巻では、まずサウルとヨナタンが斃れた時から始まり、ダビデが人口調査した出来事により閉じられています。特に注目されるのは、ダビデの罪と苦難に満ちた歩みです。このダビデからは、良い意味でも悪い意味でも多くの事柄を学ぶことができます。ダビデの良い面においては見習い、悪い面においては反面教師とすべきでしょう。この巻は全体的に見てそこまで難解な内容でないと分かったはずです。一つだけ難しい箇所、すなわち同じ言葉を繰り返して記しているあの箇所がありました。しかし、その箇所も私が述べた通りに理解するのであれば、問題は全くなくなります。この巻も学べたことを恵み深い主に感謝しましょう。