【Ⅱサムエル記6:13~7:22】(2023/01/22)


【6:13】
『主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。』
 ダビデはオベデ・エドムの家から箱を持ち運びましたが、今度は牛を使わず、人に担がせて持ち運ぶこととしました。もう牛の車は使わないのです。恐らく、3か月前に牛を通してウザの神罰が引き起こされたからなのでしょう。もうあのような悲劇が起きてはなりませんでした。この時にダビデは担ぐ者たちの一人でなく、運搬を監督する立場でした。担ぐ者たちが『六歩進んだとき』、ダビデは『肥えた牛』を生贄として神に捧げました。これは担ぐ者たちが『六歩』進んだ時でしたから、「6」=人間すなわちウザと関係があるのでしょう。ここでの「6」には間違いなく意味があります。これは前にウザの件があったのですから、恐らく神を宥めようとしたのかもしれません。この時に捧げられた『肥えた牛』は、ウザの時に箱をひっくり返そうとした牛では無かったはずです。

【6:14~15】
『ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。』
 この移動は喜ばしい出来事でしたから、ダビデは移動の際に『主の前で、力の限り踊』りました。これは敬虔で良いことでした。また、この時に『ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた』のですが、これは祭司が身に着ける衣装です。ダビデが祭司用の衣装を身に着けていたのは、つまり祭司のように仕える者として箱を運び上っていたということなのでしょう。この時にはダビデ以外のイスラエル人たちも大いに喜び祝いつつ箱を運び上っていました。これは王の凱旋が行なわれる時と同じように喜ばしい出来事だったからです。

【6:16】
『主の箱はダビデの町にはいった。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。』
 こうして聖なる箱が遂に『ダビデの町』であるエルサレムへと到着しました。今度の移動では、ウザのような件が全く起きませんでした。エルサレムにいたダビデの妻ミカルは、ダビデが箱と共に帰って来たのをその目で眺めていました。すると、彼女はダビデが王の威厳に適っていない振る舞いをしていると感じたので、『心の中で彼をさげす』みます。彼女は神のことなど全く考えていなかったのです。彼女が考えていたのは世の体裁だけでした。これではまるで「世の人」です。神の民とは「霊の人」であるべきなのですが…。ミカルがダビデを蔑んだのは、サウルの娘だったからなのでしょう。遺伝子の作用により、息子は母親に強く似ますが、娘のほうは父親に似る傾向があります。サウルは、私たちが既に見た通り、非常に不敬虔な人でした。そのため、その娘であるミカルも不敬虔な父と同じ不敬虔さを強く持っていたわけです。

【6:17~19】
『こうして彼らは、主の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真中の場所に安置した。それから、ダビデは主の前に、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた。ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、万軍の主の御名によって民を祝福した。そして民全部、イスラエルの群衆全部に、男にも女にも、それぞれ、輪型のパン一個、なつめやしの菓子一個、干しぶどうの菓子一個を分け与えた。こうして民はみな、それぞれ自分の家に帰った。』
 遂にダビデたちは箱をエルサレムへと運び終えました。ダビデは箱が安置されるべき専用の天幕を作らせます。この箱は特別な存在ですから、それを安置する専用の天幕が作られるべきだったのです。そしてダビデは神に対し生贄を捧げます。これは民の贖いをするためであり、神に対する崇拝の意味もあったでしょう。それからダビデは民を祝福し、祝いとして全ての民に『輪型のパン一個、なつめやしの菓子一個、干しぶどうの菓子一個を分け与え』ました。この贈り物は、これから神が民に与えて下さる祝福を予示していたと見てよいでしょう。実際、これから神はイスラエルの民を祝福されました。これからソロモンの代に至るまでイスラエル王国は黄金時代を迎えるからです。こうして群衆は解散し、それぞれ帰宅しました。この時の民衆が喜ばしい気持ちだったことは間違いありません。

【6:20】
『ダビデが自分の家族を祝福するために戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。」』
 民を祝福したダビデは、続いて『自分の家族を祝福するために戻』ります。自分の王宮に帰宅したわけです。すると、ミカルが出迎え、ダビデの振る舞いを非難しました。彼女はダビデが主の御前であれ裸になったことを不快に思っていました。このような非難は致命的でした。何故なら、ミカルは主の御前において喜んでいたダビデを蔑んだからです。ミカルはここでダビデの振る舞いを『ごろつき』に例えています。彼女にとっては、裸になって喜ぶぐらいであれば主の御前で沈黙しているほうがましでした。このように非難することで、ミカルは自分が霊的なごろつき女であることを暴露しています。ダビデがどの程度まで裸になったかは詳しく書かれていないので分かりません。聖書はただダビデが裸になったとだけ書いています。

【6:21~23】
『ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。あなたの目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった。』
 ダビデを全イスラエルの王に引き上げられたのは神であられました。サウルやサウルの家がダビデを王に任じたのではありません。ダビデは自分が王となるよう任じられた神の御前にいました。ダビデの栄達はこの神なくして起こりませんでした。ですから、ダビデは神の御前にいる以上、神の御前で喜び踊るべきでした。もしそうせず沈黙していればダビデは神に対して無礼でした。それは10兆円を贈られたのに何も喜んだり感謝せず黙り続けているのと同じです。敬虔なダビデは神に対してそのようなことを行なえませんでした。もしダビデが神の御前にいるのに喜び踊らなかったとすれば、ダビデは霊的に愚かだったことになります。ダビデがそのような人物であれば、そもそも神から特別に選ばれていたかどうか定かではありません。

 ダビデにとって、ミカルの不敬虔な心に喜ばれるよりは、『はしためたち』の敬虔な心に喜ばれるほうが優っていました。正しい者には、不敬虔な者に嫌われても敬虔な者に喜ばれることのほうが重要です。ですから、ダビデは『はしためたち』に喜ばれる振る舞いがミカルから良く思われなくても、別に何ということもありませんでした。22節目でダビデは『私はこれより、もっと卑しめられよう。』と言っています。これは、今後もダビデが敬虔な振る舞いを続けるのでミカルからずっと不快に思われ続けるであろう、という意味です。もしダビデがミカルに合わせて敬虔な振る舞いを差し控えたとすれば、もはやミカルから卑しめられることはなかったでしょう。しかし、ダビデは不敬虔な女に自分を合わせたりしませんでした。このように不敬虔な妻を持つ信仰者は不幸だと言わねばなりません。何故なら、こういった不敬虔な妻が敬虔になることは珍しいからです。

 23節目で書かれている通り、『ミカルには死ぬまで子どもがなかった』のですが、これはダビデがミカルと交わろうとしなかったことを意味しています。ダビデのような信仰者が、ミカルのように不敬虔な妻と交わることは考えられません。何故なら、交わるならば肉だけでなく霊も一体化するからです。敬虔なダビデがどうして不敬虔なミカルと霊的に一体化しようとしたがるでしょうか。ありえません。もしミカルが不敬虔な妻でなければ、ダビデはミカルと交われていたでしょうから、ミカルは子どもを生むことが出来たかもしれません。ミカルが不妊だったので子を持てなかったのではありません。この箇所の文脈を考えれば、ミカルが不敬虔だったのでダビデと交われなかったということは明らかだからです。もし不妊のためミカルが子を持てなかったとすれば、聖書にはそのことが書かれていたでしょう。ですから、ミカルが子を持つ喜びに与かれなかったのは、不敬虔に対する神からの呪いでした。神はこのように不敬虔な者の子孫を根絶やしにされるのです。そのようにして神の復讐が不敬虔な者に対して全うされます。

【7:1】
『王が自分の家に住み、主が周囲の敵から守って、彼に安息を与えられたとき、』
 エルサレムに聖なる箱が運び込まれると、それから神はダビデに守りと安息を与えられました。ダビデはひとまず、もうそれまでのように敵と戦う必要がなくなりました。それまではまだ戦うべき時でした。しかし、もう安息の時が来たのです。箱がエルサレムに持ち運ばれたからこそ、このような幸いがダビデに与えられたのは明らかです。何故なら、箱には神がおられるからです。

【7:2~3】
『王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」すると、ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行ないなさい。主があなたとともにおられるのですから。」』
 神は、ダビデに『杉材』で作られた家すなわち王宮を与えられました。それは王宮ですから恐らく立派な建物だったと思われます。しかし、神のおられる箱は簡素な天幕に置かれているだけでした。ダビデの住まいと神の住まいに大きな差があったのは明らかです。ダビデが杉材の王宮に住むとすれば、尚のこと、神の箱はそのような建物に置かれるべきです。何故なら、神はダビデよりも偉大であり、ダビデが杉材の王宮に住む立場まで引き上げられたのは神だったからです。ところが、神の箱は『天幕の中にとどま』り続けていました。これでは、まるでダビデのほうが神よりも格上であるかのようです。ちょうど、ある平民が宮殿に住んでいるのに何故か王は平屋建ての普通な物件で住んでいるのと似ています。少し考えればこれがおかしいことぐらい誰にでも分かったはずです。そこでダビデは聖なる箱を安置する杉材の家が作られるべきであると預言者ナタンに話します。これは良い志に基づく良い提案でした。ナタンにもこの提案は喜ばしく感じられました。ですから、ナタンはダビデが自分の思うところを成し遂げるように勧めます。ナタンはダビデが全て上手に行なえると確信していました。何故なら、ダビデには神が共におられたからです(3節)。まだ神が共におられた頃のサウルも、サムエルからこのように言われました(Ⅰサムエル10:7)。神が共におられるならば何をしても成功するものなのです。この『預言者ナタン』はここで初めて登場します。彼は恐らくダビデと非常に親密な関係を持つ預言者だったのでしょう。彼は後ほどダビデが姦淫の罪を犯した際、神からダビデのもとに遣わされています(Ⅱサムエル12:1)。『ナタン』という名前はダビデの子にもいましたが(Ⅱサムエル5:14)、当然ながらダビデの子とは別の人物です。

【7:4~7】
『その夜のことである。次のような主のことばがナタンにあった。「行って、わたしのしもべダビデに言え。主はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。わたしは、エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んできた。わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか。』と、一度でも、言ったことがあろうか。』
 ダビデが神の家について話した日の夜、神はナタンにダビデのことで告げられました。この時に神はダビデに直接語られず、預言者ナタンを通じて語ろうとされました。いつもこのように預言者を通して神が語っておられたというわけではありません。これまでの箇所からも分かる通り、神はダビデにも直に語りかけておられました。神はダビデの言葉を喜んでおられました。これまで神の家を建てようなどと少しでも言ったイスラエル人はいませんでした。ダビデが初めてそのような提案をしたのです。『神の人』であるモーセでさえ、そのようなことは言いませんでした。これまで少しぐらいはこの事柄について言われていても良かったのです。ですから、初めてこのようなことを言ったダビデに対し神はどれだけ喜ばれたでしょうか。7節目で言われている通り、神はこれまで御民に『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか。』などと一度でも言われたことがありませんでした。ですから、民が神の家を作ろうとしなくても別に罪だというわけではありませんでした。しかし、神は言われなくても民が自らそのようなことを求めていたとすれば、どれだけ良かったことでしょうか。神はそのような積極性ある敬虔さを喜ばれます。こういうわけで神はダビデの提案を良しとされたのです。

【7:8】
『今、わたしのしもべダビデにこう言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。』
 神は、ダビデを羊を支配する者から全イスラエル人を支配する者へと引き上げられました。ダビデがイスラエルの王となってからも、本質的に行なっていることは変わりませんでした。羊飼いの時であれ王の時であれ、自分の下にいる存在を支配するという本質は同じだったからです。ですから、ダビデが羊を飼っていたのは、やがて王になることの予表だったと言えます。またダビデが王職に就いたのは、その仕事の面から言えば、羊の管理が基盤にあったと見做せるでしょう。ですから、神はダビデを小さい頃から王の仕事に慣れさせていたと見ることが出来ます。

【7:9】
『そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい大いなる名をあなたに与える。』
 神は、これまでずっとダビデと共におられました。それはダビデが神の『しもべ』(Ⅱサムエル7章8節)だったからです。サウルの場合、神の僕ではありませんでした。サウルが『しもべ』と言われている箇所は聖書にありません。ですから、サウルは道半ばで神から見放されたのです。もしダビデが神の僕でなければ、恐らく神はダビデと共におられなかったかもしれません。その場合、ダビデもサウルと同様に途中で見放されていたかもしれません。また神はダビデの敵をいつも倒され、ダビデに勝利を与え続けておられました。ダビデが敵に敗北した時など少しもありませんでした。それはこれまでの箇所を読めば分かる通りです。これも、やはりダビデが神の僕として歩んでいたからです。

 神は、ダビデに偉大な名を与えられました。このため、ダビデは今に至るまで大いなる者として語り継がれています。ダビデが大いなる者とされたのは、キリストを予表していたからです。ダビデはやがて現われるキリストを預言する存在でした。ですから、キリストとダビデの偉大さは対応していなければなりません。キリストは偉大な救い主であられます。このため、このキリストを予表するダビデも偉大な者とされるべきだったのです。こういうわけで、ダビデの偉大さはキリストがその理由でした。もしダビデがキリストを予表する存在でなければ、ダビデは偉大な名を持つ者とされていなかったことでしょう。

【7:10~11】
『わたしが、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、民を住みつかせ、民がその所に住むなら、もはや民は恐れおののくことはない。不正な者たちも、初めのころのように重ねて民を苦しめることはない。それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。』
 11節目で言われている『さばきつかさを任命したころ』とは、士師記の時代です。つまり、『さばきつかさ』とは士師を指します。その頃のイスラエル人は『不正な者たち』に苦しめられました。1回だけでなく何度も何度も苦しめられました。そのようになったのはイスラエル人が罪深い状態から離れないままでいたからです。しかし、イスラエル人がユダヤの地に堅く根差す時期となれば、もはや不正な者たちがイスラエル人を苦しめるようなことはなくなります。何故なら、その時期のイスラエルには神から守りと安息が与えられるからです。今が正にその時期でした。すなわち、もうこれからはそのような時期が始まるのです。そのようにして神がイスラエルに幸いを与えられるのは、ただ一方的な御恵みによりました。民が自らの手でそういった守りと安息を獲得したのではありません。

【7:11~13】
『さらに主はあなたに告げる。『主はあなたのために一つの家を造る。』あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。』
 この時にはまだソロモンが生まれていませんでした。神はここでそのソロモンがダビデの王位をやがて継ぐようになると言われます。つまり、ダビデの子孫でない者がダビデに続く王となるわけではありません。ダビデの『身から出る世継ぎの子』が次の王になるというのは、ダビデにとって良い知らせだったはずです。何故なら、いつの時代も王は自分の子孫が王位を継承してほしいと望むものであり、王の子孫が王位を継承しないケースも歴史の中では別に珍しくないからです。

 神は、このソロモンにおいてイスラエル王国を確立されると言われます。つまり、ソロモンの治世において、イスラエル王国は、内部からも外部からも1人前の立派な国家だと見做されるようになります。実際、神はソロモンにおいてイスラエル王国を国家として堅固にされました。ダビデの治世においてはまだ全き確立がされません。何故なら、ダビデは多くの血を流していたからです。もしダビデが血を流していなければ、ダビデの治世においてイスラエルが全き堅固さを得ていたかもしれません。3代目になって全き確立が実現するという場合は珍しくありません。ソロモンもイスラエルの王として3代目でした。ヤコブすなわちイスラエルの場合もそうでした。アブラハムとイサクに続く3代目のヤコブにおいて、神の民としての意識が全く確立され不動となったのです。これは新約時代のクリスチャンでも同じです。3代目のクリスチャンになると、その精神から世俗じみた要素が抜き取られるので、クリスチャン的であることが自然な状態になります。

 また神はこのソロモンにおいて御自分の家を建てさせられます。つまり、ダビデの願いはソロモンにおいて遂げられることとなります。ダビデは神の家を建てることができません。何故なら、ダビデは戦争での合法的な殺人だったにせよ、あまりにも血を流し過ぎたからです。もしダビデがここまで血を流していなければ、ダビデにより神の家が建てられていた可能性もあります。

【7:14】
『わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。』
 神はソロモンに対して父となられ、ソロモンは神に対して子となります。これはダビデと神の関係と同じです。ダビデも神に対して子であり、神はダビデの霊的な父だったからです。神はここでソロモンが『罪を犯すとき』と言っておられます。これはソロモンが多くの妻を娶り、それからその妻たちを通して偶像崇拝に陥ったことです(Ⅰ列王記11章)。この時にまだソロモンは生まれてさえいませんでした。しかし神はソロモンが生まれる前から既にソロモンの罪を知っておられました。実際、これからソロモンが生まれ、大きな罪を犯すこととなります。神はソロモンが罪に陥るならば、『人の杖、人の子のむちをもって』懲らしめると言われます。実際、ソロモンが罪に陥ると、神は懲らしめるためソロモンの悩みとなる敵対者を起こされました(Ⅰ列王記11:14、23)。神がこのようにされたのはソロモンが苦しむことで悔い改めを求めさせるためです。もっとも、ソロモンはこのような懲らしめを受けても悔い改めることがありませんでした。

【7:15】
『しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、私の恵みをそのように、彼から取り去ることはない。』
 神はかつてサウルから御恵みを取り去られ、サウルを全く捨ててしまわれました。それはサウルが御心に適わなかったからです。ソロモンもサウルのように罪を犯しますが、しかしサウルのように見放されたりはしません。つまり、ソロモンの場合は、その生涯の終わりに至るまで、ずっと王権が取り去られないままとなります。これは2つの理由からです。一つ目はソロモンがダビデの子だったということです。二つ目はソロモンもダビデと同じくキリストを予表する存在だったからです。神の御前に堕落して背き去ったという点で、ソロモンとサウルは同じでした。しかし、神の注いでおられる御恵みと役割が、この2人ではそれぞれ大きく異なっていたのです。それゆえ、一方は堕落して王座から遠ざけられ、一方は堕落しても王座から遠ざけられませんでした。

【7:16】
『あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」』
 神は、ダビデの王国とその王座が永遠にまで保たれると約束されます。この約束はキリストにおいて成就しました。ダビデの王国はキリストがその霊的な王国において引き継いでおられます。ですから、ダビデの王国は今でもキリストにおいて存在し保たれています。またダビデの王座もやはりキリストにおいて存続しています。ダビデの王座はキリストという王において、これからも永遠に継続されます。しかし、「ダビデの王国と王座はネブカデネザルにより消失したんじゃないのか?」と思う人がいるかもしれません。確かにダビデから続く王国と王座は、ネブカデネザルによるエルサレム滅亡が起きた際、消えたかのようにも思えます。しかし、神がここで言っておられる事柄はキリストにおいて捉えるべきです。ここで言われている事柄をキリストと結び付けて考えるべきです。そうすればネブカデネザルの件は問題にならないことが分かるでしょう。ダビデはこのように神から言われて喜びを持ったはずです。何故なら、もしダビデがこういった喜ばしい約束を聞いておきながら何も喜ばなかったとすれば、ダビデはとても鈍くて愚かな者だったことになるからです。ダビデが霊的に優れた者だったのは誰の目にも明らかです。

【7:17】
『ナタンはこれらすべてのことばと、これらすべての幻とを、そのままダビデに告げた。』
 ナタンは神から与えられた啓示を、全てそのままダビデに伝達しました。これは正しいことでした。何故なら、神の啓示をそのまま伝え知らせることこそ預言者の使命だからです。実に、そうするためにこそ預言者という存在がいるわけです。ですから、ナタンであれ誰であれ、もし神の啓示をそのまま伝えない預言者がいたとすれば、その者は預言者として失格となります。

【7:18~19】
『ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいった何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか。』
 神の啓示を受けたダビデは、神の御前で感謝の祈りを捧げます。ダビデは恐らくナタンから離れて一人だけで祈りを捧げたと思われます。何故なら、ここではダビデが『行って主の前に座し』たと書かれているからです。この箇所から7章の終わりまで記録された祈りは非常に敬虔な内容であり、記憶するに値します。これは祈りのお手本としていいでしょう。このダビデのように御恵みを神から受けた際、神に感謝の祈りを捧げるのは良いことです。そうしなければ私たちは神に対して無礼な者となるからです。

 ダビデは、その過去を考えれば分かる通り、本来であれば王になるような者ではありませんでした。ヨナタンであれば王子なのですから、やがて王になるのは自然だと思えたはずです。しかし、ダビデのような無名で小さい羊飼いであれば、誰が王になるなどと思ったでしょうか。ダビデ自身でさえまさか自分が王になるとは思わなかったはずです。しかし、神はこのダビデを王の地位にまで引き上げられました。それゆえ、ダビデは自分に与えられた神の大きな御恵みを言い表し、その御恵みを称揚します。「私のように小さい者が王まで引き上げられるとは…」とダビデは言っています。しかし、ダビデを王にすることこそ神の御心だったのです。何故なら、ダビデのような者を王にまで引き上げるならば、神の御恵みが明瞭に際立って認められることとなるからです。もしダビデが王になって当然の者であったとすれば、王になっても、神の御恵みはあまり際立たなくなってしまいます。ここでダビデは『これが人の定めでしょうか。』と言っています。これは自分に与えられた分不相応な引き上げの御恵みを驚嘆し称揚しているのです。また、この祈りの中でダビデは『ヤハウェ、主よ。』と神の御名を繰り返して呼んでいます。これはダビデが心底から神に語っていることを意味しています。

【7:20~21】
『神、主よ。このダビデは、このうえ、あなたに何をつけ加えて申し上げることができましょう。あなたはこのしもべをよくご存じです。あなたは、ご自分の約束のために、あなたのみこころのままに、この大いなることのすべてを行ない、このしもべにそれを知らせてくださいました。』
 ここでダビデは、神から与えられた御言葉に何も付け加えることが出来ないと言っています。何故なら、神はダビデという『しもべをよくご存じ』だったからです。つまり、神はダビデが御自分の御前に何でもない存在だとよく知っておられました。そのような取るに足りない存在であるダビデが、神の御言葉に何か付け加えるというのは、確かに出来ない話なのです。神がダビデにこのような啓示を与えられたのは、『ご自分の約束のため』(21節)でした。神が前もって約束を告げられるならば、それは神の栄光となるからです。それというのも神の約束は必ず実際に実現するからです。神の約束がその約束通りに実現すれば、まだ実現していない事柄を前もって約束された神が、賛美されるに相応しい御方であることは誰の目にも明らかなのです。また神はその約束を『みこころのままに』告げられました。神の御心はダビデにこの約束を告げ知らせることでした。何故なら、もしダビデがそれを聞くならば、ダビデは神に感謝と賛美を捧げるだろうからです。実際、この祈りの中でダビデはそのようにしています。もしダビデが神の素晴らしい約束を聞いても沈黙しているようであれば、神は恐らくダビデにこの約束を告げておられなかったかもしれません。

【7:22】
『それゆえ、神、主よ。あなたは大いなる方です。私たちの耳にはいるすべてについて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はありません。』
 ダビデのような小さき者に、神はこのような素晴らしい約束と導きを与えられました。これは大変に大きな御恵みです。このため、ダビデはこの神こそ真の神であると言います。実際、このような御恵みを与えることが出来るのは真の神だけであられます。真の神でない神と呼ばれている神々にそういったことは決して出来ません。何故なら、真の神でない神は存在しない偽りの神だからです。存在してさえいない神がどうしてダビデに与えられたような御恵みを与えられるでしょうか。『あなたのほかに神はありません』から、存在していない神がダビデに恵みを与えることは決して出来ませんでした。